(前回記事)

心の履歴(151-2) 
チャンス到来を知らず
2009/06/20著

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(今回記事)

心の履歴(152-1) 

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い
2009/06/22 著

さてさて、改めて述べると、

1974年東京支店転勤当時、私が森広支店長にやられたのは、山村部長の部下だったからです。

つまり、山村部長と森広支店長は犬猿の仲。
坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い。

私にとってはエライ迷惑なことでしたが、逃れる術は無かったのです。

1962年(S37)CV機(仮称)を日本で始めて作ったのが日立製作所(東証一部)。


その二年後(S39)にAN社(東証一部)とG社(当時未上場 現東証一部)がCV機に参入。

処が、S43年頃、CV機の夜間メンテナンス対応での時間外労働問題で労働組合と争議していたAN社は、LL社(現 東証一部)に相談。LL社は、AN社に太秦電機㈱を紹介。


太秦電機㈱は、AN社CV機の総発売元となり、販売とメンテナンスを一手に引き受ける。

と言っても、当時の太秦電機㈱は、静岡以北に拠点が無かった時代、

山村課長(当時)がリュックを担いで単独で東京着任。
広尾のAN社本社の事務所の片隅に机一つに電話一本引き、間借りから始めた東京市場攻略。

彼は先行している日立製作所の唯一の販売チャネルである東京販社の安食社長(仮称)を懐柔。

昼は安食社長と帝国ホテルや東京プリンスホテルのレストランでサーロインステーキ。新宿副都心で一番早く出来た超高層ビルの京王プラザホテルが竣工したS46年以降はこの京王プラザへ。夜は歌舞伎町で接待。

山村課長は、京都室町で鍛えられた謀略家。

それにオーラが漂う。


安食社長は、山村課長にコロリと騙され、日立製作所から離脱し、新規参入予定の三洋電機CV機の発売元となる。

 

これ、太秦電機は、そもそもAN社製CV機の総発売元故、AN社の了解無しに三洋電機CV機の発売元となる訳にはいかないので、便宜上、安食氏を擁立したのである。

他方、当時一番の顧客になってくれたのが澁谷商業組合。
二番目が杉並中野商業組合。

それから二年後

東京市場で確かな地盤を築いた山村課長は、当時、静岡営業所の森広所長を自分の上司の支店長に指名。都内に六階建ての中古ビルを購入後、森広支店長着任。

山村課長は安食社長を接待していない時でも、昼はホテルレストラン、夜は歌舞伎町。お気に入りの部下を連れて連日。

何しろ大義名分がある。
日立製作所販売ルート壊滅の為。

だが森広支店長をば決して誘わない。
小ばかにしていたのです。


支店長は新聞では社会面しか読まないし、本を読む部下は理屈っぽいと毛嫌いするほど本を読まない故、街中の小売店主との話はまともにできても、社会的地位や知的レベルの高い人とは無理でした。と言っても、本人は自分の稚劣さを認識していないのですから。

他方、森広支店長は毎月の本社会議でしっかりと叱られます。何しろ山村課長の接待交際費は半端じゃないから。

森広支店長は山村課長に注意するのですが課長は完全に無視。東京支店の月次決算は接待交際費で赤字。支店長手当やボーナスはカットの連続。

森広支店長の立場からいうと、本社会議では毎月叱られるし、課長は言う事をきかないし、小ばかにはするし、挙句の果てにボーナスはカット。頭がHageチャビンと言えども毎日が怒髪衝天。

1974年(昭和48)春、東京支店山村課長は京都本社に新しい我等の部を創設してその部長として転勤。
ようやく東京支店は森広支店長の天下となったのです。

私が東京支店に着任したのが、山村部長が東京支店を去ってから一年後。そんな状況とはつゆ知らず。

支店長にしてみたら、

「水無瀬(私)は憎っくき山村の部下!」
「飛んで火にいる夏の虫!」
「恨みはらさでおくべきか!」

とんだところに転勤してきたものです。

 

つづく

心の履歴30代①入社編:目次
2022-04-08

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