(前回記事)
心の履歴(381)
世子を抱きしめていたかも
(世子とのドライブ ②/③)
2020-10-26 (2011/06/20 著)再掲載
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12632485412.html
(今回記事)
心の履歴(382)
二年弱後、世子と亜子、会社を去る
(世子とのドライブ ③/③)
2011/06/23
1990年8月、函館から帰ってきた翌週にも世子から再度同行を依頼されました。
私の空いていた日は8月24日。
その日、世子の車の助手席に乗って世子の管轄外の夕張と岩見沢に行き、訪問先はこのエリアの二軒だけですから、午前中に済ませてしまいました。
この時、山手に赤いラブホの見える田んぼの中のイタリアンレストランに入ったのは二度目でした。
※一度目は
心の履歴(323-2)
同行での世子・亜子との昼食は
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12631574464.html
1990年のダイアリーを開いてみて、この時の詳細を改めて思い出しました。
イタリアンレストランでの食後のコーヒーの時、世子はおもむろに口を開きました。
「所長に相談したいことがあります」
やはりそうか、何か重たいものが彼女の心に潜むのは感じていました。
「所長、私、会社を辞めたい」
暫らく間を置いてから続けてポツリと言いました。
「辞めることは家族全員に報告し了解を得ています」
「彼氏のも?」
「えぇ、そうです」
これ以上、言い様がなかったのです。そこまで進んでいるなら、9日前、函館に私を連れて行ったのは何の為だろう?
函館から帰ってきてからの数日間、どんな事が起きたのだろう。色々な想いが試行錯誤しました。
世子と彼氏が上手くいっていないのは、世子から度々聞かされていました。それもそうです。世子の平日での帰宅は午前様が多い。土曜日曜は会議や一泊研修が度々。
「仕事のことで頭が一杯。彼氏のこと等考える余裕はないわ」とも言っていました。
彼氏から度々会社を辞めるように懇願されていました。
この彼氏との問題が原因なのか?
好天の午後、事務所に世子と私が二人きりの時、帰ってきたメンテナンスの野崎君が世子にも聞こえるように私に言いました。
「世子さんは彼氏と夏前に別れたのですよね」
「何故別れたの?」
「世子さん、所長に惚れているからじゃないですか?」
「そんな馬鹿な」
その時、世子は私の前の席にいました。私は笑いながら世子を見やりましたが、一瞬目が合ったのみ。それから世子はじっと机にむかったまま無言でした。後、世子は席を外しました。
その時、あ~、野崎君がくだらない事を言うから怒っちゃった!と思いました。これが原因?
※心の履歴(330)
世子の成長へのプロセス
2022-01-13 (2010/10/15 著)
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12720665128.html
あるいは、当時、二十歳そこそこの4~5人いた女性社員達は、夕方になると喧騒たるもの。彼女等の顕著なる特徴は嫌な人の言うことは聞かない。言われてもあからさまに「フン!」。
若い女性が数人集まったら強いものです
嫌な人とは、設計担当の岡田課長(当時46歳、前任地金沢営業所所長)と総務の松口係長(当時39歳)。
彼女等に嫌われているこの二人は私に何度か陳情しました。
「やれ休みがどうのこうのとかあんな我がまゝで五月蝿いオンナ供は、全部首にしてしまったらどうですか?」
私は苦笑するだけ。
「女性達は君達より余程値打ちがある」とは直接この二人には言いませんでしたが、「君達の会社に対しての貢献度と彼女達の貢献度を数字で比較してみたらどう?」と言いました。
でも、世子は騒ぐ女子たちには加わらないが、彼等の言った「オンナ供は全部首」という言葉を気にしていたのか?
それとも、この年の春、新卒で営業員として雇用した女子短大卒の麗子(仮称)が、この8月初めに辞表を出してきたから、それが原因かも。
世子に部下として新卒の指導育成を委ねました。将来、世子が独立して社員を雇用する立場になった場合の一種の試技として。
世子に言わせれば、麗子はまだまだ顧客の前で腰が引けていると言っていました。世子がここを指導しようとしたが麗子にとっては辛かったのかもしれません。間もなく会社を去りました。
このことに責任を感じたからか?
それにしても、家族の了解をとったと言う意味が分からない。
お互い、目と目を見つめあいながら暫しの時が流れました。突然辞めたいと言われると何が理由なのか分からないものです。
私 「君の人生は君のものだからね。君の人生目標達成の為にこの会社が障害になっているかどうかだ。多くの収入を得たいのだったら、何れにしても、宮仕えする限りにおいてはそんなに期待する程の収入は望めない」
世子が何かをするためにお金を貯めていたことは知っていました。それは世子らしいことでした。
暫し間を置いて、
「今、何等かのチャンスが到来しているなら迷わず会社を辞め、それを選択すべきだろう。もしも、そうではなかったら、そのチャンスが来るまでこの会社に勤務していたらどうかね」
お互い、無言が続きました。そのままでどのくらいの時間が経過したのでしょうか。世子が落ち着いた声で言いました。
「もう一度、考えてみますわ」
「そうしてくれたまえ」
その日以降、世子にこの件について一度も問いませんでした。
10日後の9月初め、世子が 「所長、宝くじを一緒に買いましょう」 というので、世子が30枚、私が60枚買いました。
これは世子の「会社を辞めないよ!」というシグナルでした。抽選日は9月21日。結果はお互いかすりもせず。
以後、世子の助手席には月二回から四回乗りました。札幌市内東部と苫小牧方面です。
10月18日(水)夜、事務所で世子と二人きりになったとき、世子が話し出しました。実は世子は東札幌の自宅から通勤していたのでしたが、夏前に菊水で鉄筋コンクリート新築の2DKアパートの賃貸契約をし、そこに一人で入居しているとのことです。
不思議なのは、野崎君の話が事実とすると、夏前に世子は彼氏と別れたのに何でアパートを借りて一人で住み始めたのかです。
翌日の私との同行日、世子は忘れ物をしたと称し、そのアパートに横づけし、私は助手席からその白い建物を見させてもらうだけで、中には入りませんでした。
大晦日が迫ったある日、世子は12月24日(日)に賃貸アパートから荷物を引き揚げたといいます。それにしても何の為に僅か半年という短期間アパートを借りたのか、理由が分かりませんでした。
年が明けての1月早々、私に転勤命令が来ました。
バタバタとした転勤引継ぎでの一ヶ月間でした。
この月、世子とは四日間一緒に顧客への転勤挨拶訪問をしました。そして2月6日、千歳空港から伊丹空港へ。夕刻、本社着任。
以後、全国の女性パート営業員(主に主婦 40名前後)は私の担当で、年に三度本社に召集し会議を開催。夜は吉田専務(この春昇進)と毎回彼女等を引き連れ、先斗町や祇園を梯子酒。
処が、当初、世子と亜子も私の管轄と言われていましたが、着任早々正社員だから私の管轄外と言われ、この二人の相談に直接乗ることが出来ませんでした。
更に着任当初、吉田専務は何故か私の札幌出張を禁止しましたが、1年半後の秋に急遽「札幌に出張し、北海道の社員を指導して欲しい」とのこと。どうやら札幌支店の塩見支店長では埒(らち)が明かないのでした。
そこで私は北海道エリア会議に出席しました。
かっての札幌営業所の木造建物は売却され、改めて白石区の国道沿いに鉄筋コンクリート三階建ての中古物件を購入し、そこを札幌支店の社屋としていました。
他方、旭川の斎藤君が札幌の営業係長に。札幌の草野君が旭川の所長として配属され、温泉仲間の北見の中塚君と釧路の植野君は微細な理由で古田管理部長から辞職を迫られ、会社を去ったとのことでした。
会議が始まるや否や、何故か塩見支店長は「あとは任せた」と言いながら会議室から消えました。これまでの会議の内容を皆に聞くと、当月の各自の見込み額と塩見支店長の本社会議で発表する何か目新しいことがないかとの報告を求めることだけだったそうで、私は唖然としました。
それに世子と亜子のあのキラキラとした生気は消えていました。
それから数か月後、世子は会社を辞め、更に数か月後、亜子も会社を去り、札幌でのうら若き女性営業員は皆無となりました。
吉田専務の私の札幌への出張指示は、恐らく、この両名から辞表が提出されており、それを私が防げるとでも思ったからでしょう。
つづく
心の履歴(383)
もう1年札幌に勤務していたら
2022-02-10 (2011/06/26著)
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12726028571.html
『心の履歴』40代北海道編 目次(1)
(自) No.241 1987年1月
(至) No.323-2
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12712060251.html
『心の履歴』40代北海道編 目次(2)
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12720330612.html
(自) No.324~
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