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ピーター・ドラッカー(15)処女作
独ソの結託を見通す チャーチルの評価に驚喜
2021-11-01 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12707301406.html
 

今回記事

ピーター・ドラッカー(16)経済誌を編集
雑誌王に学んだ60日 IBM創業者とやり合う

雑誌王ヘンリー・ルースの誘いを受け入れ、週刊誌タイムの海外ニュース編集者になる話は結局実現しなかった。

タイムでは私は共産主義者の敵と見なされたからだ。共産主義に共鳴するジャーナリストが多かった時代、『経済人の終わり』でファシズムと共産主義の結託を予測したことが原因だ。

 

職場での派閥抗争は真っ平だから、ルースには「この話はなかったことにしてくれ」と伝えた。

それでもルースはあきらめず、1年後の1940年に再び連絡してきた。経済誌フォーチュンの創刊10周年記念号の編集作業が大幅に遅れており、助けてほしいという。

フォーチュンについて少し説明しておこう。同誌は、ルースの創案による斬新なグラフィックスやイラストを駆使する雑誌デザインの革命児であった。

 

それに劣らずに重要だったのが、これもルースが開発した「企業ストーリー」だ。「企業のために」ではなく「企業について」徹底調査し、分析するいわゆる調査報道の元祖と言える。

期限付きなので今回は依頼を引き受けた。それから2カ月間はルースと一緒に昼夜を問わず働き、締め切りと格闘し続けることになった。

フォーチュンで編集した記事の中では、入社間もない記者によるIBMの「企業ストーリー」が思い出深い。

 


(画像)IBM創業者トーマス・ワトソン

当時のIBMは大恐慌でも社員を解雇せず、社員の訓練に注力する異色の存在だった。これによって倒産せずにいたのである。

 

創業者トーマス・ワトソンは、後年に私が指摘する「労働力はコストではなく資源である」をすでに実行していたわけだ。宣伝スローガン「THINK(考える)」も革新的だった。

それなのに、記者はこんなIBMには一切触れず、見事に的外れな原稿を書き上げた。「調査報道とはとにかく敵対的になること」と勘違いしていたのだ。

 

ワトソンが社の敷地内で飲酒を禁じていることに憤慨し、彼を「米国版ヒトラー」と呼ぶなど個人攻撃に終始。しかも達筆な文章で書いており、ルースは「余計に後味が悪い」と嘆いた。

 

締め切りを考えれば差し替えは不可能。猛烈な抗議は必至だ。私は編集責任者としてまず記者を守り、一歩も引かないつもりだった。ルースにはIBMからの電話は私につなぐよう頼んでおいた。

当時の慣習に従い、印刷所へ回る直前に記事はIBMへ送られた。数日後、電話が鳴った。「トーマス・ワトソンだ。記者と話したい」。「責任者は私です」と突っぱねる私と押し問答すると、「それなら広報部長に招きたいと彼に伝えてくれ」と言う。

ワトソンが記事を気に入っているはずはない。記者を広報部長に抜擢するのと引き換えに記事をボツにさせようという魂胆なのか。

 

だが、「記事が出なければ広報部長の話もなかったことにする」とも言うので、つじつまが合わない。

ふと気になって「記事はお読みになったのですか?」と聞いてみたら、ついにワトソンは怒ってしまった。「私と私の会社についてはいつだって読んでいる」。

 

彼にとっては記事の内容はどうでもよかった。どんな記事でも掲載されれば、IBMの宣伝になると考えていたのだ。

ルースと一緒に働いた期間は短かった。けれども、文筆家として長いキャリアを過ごす中で、最も面白く、刺激的で、勉強に役立った期間でもあった。   つづく


ドラッガー書庫
https://ameblo.jp/minaseyori/theme-10114934951.html
https://www.nikkei.com/article/DGXZZO49035960X20C19A8000000/?unlock=1