(今回記事)
ピーター・ドラッカー(9)記者兼教授(日経)
ヒトラーに直接取材 国際法ゼミで代役務める
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(前回記事)
ドラッカー(8)大恐慌;偉大な教師 (日経)
2021-07-01
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12682542712.html
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新聞社フランクフルター・ゲネラル・アンツァイガーでは、入社2年後の1931年、3人いる副編集長のうちの1人へ昇格した。22歳になったばかりだった。
こんな若者がなぜ、と不思議に思われるかもしれない。
当時、上の世代は第1次世界大戦の影響で人材不足だったのだ。編集局は、たったの14人の記者と編集者で成り立つほどの少数精鋭だった。
ニュースはロイターなど通信社電に頼っていたが、特集記事や論説は自前で用意しなければならず、私もフル回転だった。週に3本か4本の論説を書きながら、海外面と経済面の編集も担当した。
自ら取材にも出かけ、地元の出来事をカバーした。台頭著しいナチスの党首アドルフ・ヒトラーや右腕のヨーゼフ・ゲッベルスの演説を聞き、直接インタビューもした。一度ならず何度もである。
ナチス政権(註1)下で宣伝相になったゲッベルスは一方的に演説するのを好み、インタビューの了解を取るのは難しかった。
だが、自分に都合のよい質問項目を事前に配るなどしていたヒトラーとのインタビューは比較的簡単だった。
ヒトラーかゲッベルスのどちらかは演説で「われわれはパンの値段の引き上げも引き下げも、固定化も求めていない。ナチスによる値段を求めている」と叫び、農民の喝采を浴びた。
これはファシズムの本質を的確に示していた。なのに、だれもが「選挙向けスローガン」と受け流した。真剣に受け止めた私は何度も「お人よし」と言われた。
フランクフルトでは二足の草鞋を履いていた。フランクフルト大学法学部で博士号取得の勉強をしながら助手をしていたのだ。
ハンブルク大学と同様に、フランクフルト大学でも講義には一度も出ずじまい。退屈だということはわかっていたし、講義に出たら新聞社で働けなくなるのも明らかだった。
前に書いたように、当時の大学では試験さえ通れば大丈夫で、21歳で国際法の博士号を取得していた。
それ以前から法学部の教壇に立つことも多くなっていた。国際法担当の老教授が病弱であったため、代役で国際法のゼミを主催したり、教授のクラスを代講したりした。
フランクフルト大学で得た大きな収穫は、教授の代役を務めた関係で、後に妻となるドリスと出会えたことだ。ドイツのケルン出身の彼女は法学部の学生で、海外滞在が長かったことから、国際法の博士号取得を目指していた。
余談だが、ドリスの母親は、私が論説を書くゲネラル・アンツァイガーの愛読者だった。私の存在を知ると、「20歳を超えていくばくもない青二才の論評をずっと鵜呑みにさせられてきたというの? 詐欺行為だわ」と怒り、即刻購読を中止したそうだ。
そうこうするうちに大学からは助手より格上の講師にならないかと打診された。
だが、大学当局の任命職である講師になると、自動的にドイツの市民権を与えられる規定があった。
ドイツ市民になってヒトラーの臣下になるのは真っ平ごめんだ。右翼政党は「成り上がり者のヒトラーを牛耳るのは簡単」と高をくくっていたが、私はファシズムの嵐が吹き荒れると踏んでいた。
再就職の当てがないのはわかっていても、英国かどこかへ一刻も早く脱出しなければならない。こんな決意を固めたばかりの1933年1月、ナチスが政権を掌握した。 つづく
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(註1)
アンネ(8) ヒトラーの任務と国際金融資本
2020-06-12
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12603575365.html
アンネ(13) 欧米ユダヤ財閥がヒトラーを支援
2021-01-16
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12649920513.html
アンネ(2) 「アンネの日記」は単なる小説
2020-05-14
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12596869279.html
アンネ(4) 喜怒哀楽のアウシュビッツ収容所
2020-05-18
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12597834225.html
ドラッガー書庫
https://ameblo.jp/minaseyori/theme-10114934951.html
https://www.nikkei.com/article/DGXZZO49034860X20C19A8000000/?unlock=1
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