『大和魂』の語の初出は、紫式部『源氏物語』の『少女(乙女)』帖とされている。

 


「才(学問)をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ。」

 


(学問[=漢才]を基本としてこそ実務の才[=大和魂=和魂]が世間で重んじられるということも確実というものでございましょう)

 

そして、清少納言(966年~1025年) は、「和魂漢才」こそ大切であるという文脈の中で「大和魂」という言葉を使っているのである。

中国などから流入してきた知識・学問をそのまま日本へ移植するのではなく、あくまで基礎的教養として採り入れ、それを日本の実情に合わせて応用的に政治や生活の場面で発揮することである。


唐の学問に対して、日本の伝統文化、日本の心こそ大切であるという意識があったことになる。

 

   ☆
 

尚、大和(やまと)は、

日本の古称・雅称。倭・日本とも表記して「やまと」と訓ずることもある。大和・大倭・大日本(おおやまと)とも呼ばれる。

ヤマト王権が大和と呼ばれる地(現在の奈良県内)に在ったことに由来する。初めは「倭」と書いたが、ー

 

ー 元明天皇の治世に国名は好字を二字で用いることが定められ、倭と同音の好字である「和」の字に「大」を冠して「大和」と表記し「やまと」と訓ずるように取り決められた。

 

   ☆

 

その内、大和魂は机上の知識を現実の様々な場面で応用する判断力・能力を表すようになり、主として「実務能力」の意味で用いられると共に、「情緒を理解する心」という意味でも用いられていた。

江戸時代中期以降の国学の流れの中で上代文学の研究が進み、大和魂の語は本居宣長が提唱した「漢意(からごころ)」と対比されるようになり、ー

 

ー 「もののあわれ」

「はかりごとのないありのままの素直な心」

「仏教や儒学から離れた日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」のような概念が発見・付与されていった。

宣長は

「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」

と詠んだ事でも知られる。 

「大和魂」と「大和心」はほぼ同じ意味で使われている。

 

   ☆

 

「大和心」の初出は、

文章博士・大江匡衡(952年~1012年)と百人一首歌人であるその妻の赤染衛門の問答に見られる。

 

大江匡衡

「はかなくも思ひけるかな乳(ち=知性)もなくて 博士の家の乳母(めのと)せんとは」

 


(知識・知性もない女を、学問で身をたてる博士の家の乳母にするとは)

赤染衛門

「さもあらばあれ やまと心し賢くば 細乳につけてあらずばかりぞ」

 

(大和心さえあれば、細乳[乳がでなくても=知性がなくても]であっても十分ではありませんか)

ここでいう大和心とは、日本人としてのあり方、人つきあいの方法とか常識、こころをさす。

 

「和魂洋才」の和魂=大和魂(大和心)、日本の伝統文化に根ざした日本人の心を指すことは明らかである。

 

   ☆

 

大和魂(大和心)とは、

日本人としての歴史・伝統にはぐくまれた豊かな心である。

●縄文時代(神代)由来の「自然と人一体の心」「神と人一体の心」
●古事記にある「清き明き心」

「言挙げ(ことあげ)をしない言霊(ことだま)を大切にする心」

 

※言挙げとは、日本の神道において宗教的教義・解釈を「ことば」によって明確にすることを言う。

 

※言霊とは、一般的には日本において言葉に宿ると信じられた霊的な力のこと。言魂とも書く。


●「大和国」に象徴される和の精神
●聖徳太子の言う「和を以て貴しとなす心」
●他人を思いやる「惻隠の情」や「以心伝心」の心
●「武士道」にいう「勇気」「正直」の心
●「強きを挫き、弱きを助ける」「弱き者を助け、悪しき者を挫く」心
●「もったいない」(この言葉は外国語に訳せない)「おかげさま」「お互いさま」という心

 

   ☆

江戸後期になると国学者によって、大和魂の語は、日本の独自性を主張するための政治的な用語として使われ、そうした中で、遣唐使廃止を建言した菅原道真が、大和魂の語の創始者に仮託されるようになった。 

このような傾向は、儒学の深化と水戸学・国学などの発展やそれによる尊皇論の興隆に伴うものであり、近代化への原動力ともなった。

 

「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」
吉田 松陰
生年:文政13年8月4日(1830年9月20日)
没年:安政6年10月27日(1859年11月21日)満29歳没

 

   ☆

 

『江戸参府随行記』


「出島の三学者」と称えられるのが、江戸時代、共にオランダ商館医として来日した以下の3人、ケンペル(1651~1716)、ツュンベリー(ツンベルク、1743~1828)、シーボルト(1796~1866)で、それぞれ「参府紀行」を残している。

 

ツュンベリー(ツンベルク、1743~1828) スウェーデンの博物学者、医師。1775~76年日本滞在。著書に「日本植物誌」「日本動物誌」などですが、『江戸参府随行記』を著作した。

『江戸参府随行記』
「序」
日本帝国は、多くの点で独特の国であり、風習および制度においては、ヨーロッパや世界のほとんどの国とまったく異なっている。

国民性は賢明にして思慮深く、自由であり、従順にして礼儀正しく、好奇心に富み、勤勉で器用、節約家にして酒は飲まず、清潔好き、善良で友情に厚く、率直にして公正、正直にして誠実、疑い深く、迷信深く、高慢であるが寛容であり、悪に容赦なく、勇敢にして不屈である。

          つづく

(画像)
源氏物語絵巻 少女の帖

https://1000ya.isis.ne.jp/1570.html

 

(引用)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E9%AD%82
http://feb27.sakura.ne.jp/episode32.html
https://japanknowledge.com/articles/blogtoyo/entry.html?entryid=365