今回の記事は、1964年からの11年間、京都の下京区とかっての下京区に住んでいた当時60歳以上の小母さんたちとの会話によるものです。尚、この記事は、2008/01/29に書いたものです。
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プロローグ
平安時代の貴族社会を描いた小説『源氏物語』が女性紫式部により書かれた1008年(寛弘五年)頃(11世紀)の中世ヨーロッパ社会では識字率が極めて低く、王や貴族といえども、文字の読み書きができる者はごく少数だった(註1)。
無論、飾り物であった女性の識字率などは皆無に近いものであっただろう。
エミリー・ブロンテが『嵐が丘』を、姉のシャーロットが『ジェーン・エア』を出版したのが『源氏物語』から遅れること846年後の19世紀(1847年)ですから、『源氏物語』が、世界女性文学史上、いかに偉大なものであるかが理解できます。
ましてや、平安時代の中期は『源氏物語』だけではありません。清少納言の『枕草子』、菅原孝標女の『更級日記』も世界に誇る女性文学です。
それらの物語の舞台に住む京都市民(厳格には洛中市民)は、無意識のうちにきらめく京都という誇りと京都への愛が一種の伝統として引き継がれているのです。
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さて、本文へ
【京都の人の言う「京都」の場所とは】
私は20代の11年間と6ヶ月、京都の街で過ごしました。
昭和39年(1984年)4月から昭和50年(1995年)10月まで、京都市内をあちこち転居。
最初に住んだのが左京区北白川。
それから→下京区→下京区→東山二条→(西大路)→下京区→山科(当時は東山区山科)。
田舎から左京区北白川に来た当初、間借りの家に帰ってきたら、小母さんが言います。
※この会話、以前『ほっこり京都人(4)京ことばの元をたどれば』にも書きましたが改めて。
小母さん「おかえりやす」
私「河原町に行っていました」
小母さん「あ~、京都に行って来はった?」
私「????」
(画像)洛中エリア
つまり、洛中エリア以外を京都と呼ばないのです。
無論、嵐山や祇園や東山の裏手の山科などは京都のうちに入らなかったのです。
当時、山科は、東山区山科。
それが人口増により山科区として1976年(S51)独立した区に。
非京都でありながらプライドの高い東山区の住民は、山科の分離で喜んだでしょう。
【京都の人の嫌いな県民】
当時の京都人の最も嫌いな県民は、お隣の大阪人。
腰低い大阪商人には、口で丸め込まれるのを京都人は恐れていましたね。それに柄が悪い。
それ故に京都人はあまり大阪には行かないのです。
大阪に行かないもう一つの理由に、道路があります。
京都は碁盤の目。大阪に行き、京都に帰ろうと北の方向へ道なりに進みますと、いつの間にか南に向かっているのですから。
京都人は碁盤の目の路で育ちましたから、曲がっている大阪の路には腹が立つのです。実は、私もそうでした。
他方、四国出身者をも忌み嫌っていました。
「四国のお人は、悪(わる)ばっかし」と。
つまり、四国は、8世紀初頭から政争に破れた者や極悪人の流刑の地だったからなのです。
それに、四国高松は、大阪商人がおめかけさんを住まわせた街。
おめかけさんには、家一軒をあてがい、旅館をさせていました。
海の向こうですから、本妻の目が届かない所。
京都人は、それを知っていましたからね。
おめかけさんには美人が多いから、尚更かも。
【京都の人の嫌いな方角】
同じく、京都の西、老(おい)の坂峠を越えた「亀岡」も嫌いでした。
理由は「湿気が多く、肺病になる!」
これも、元を正せば、明智光秀が丹後・丹波を統括して治めていたからかも。
でも、当時も亀岡は晩秋から早春にかけて、ものすごい濃霧。
江戸時代の亀岡の濃霧は、老の坂峠を越えて洛中まで流れてきたかも。
どうやら気候の理由でしょうね。
それでは、京都の南の方角はどうかと申しますと、これまた嫌いでした。
鳥羽・伏見の戦いで、京都の南方は、畑でもちょっと掘れば骸骨(がいこつ)が出てきましたから。
いまだ、怨念の消えぬ土地。たたりがあると言って。
では東の滋賀県はと申しますと、湖西線を忌み嫌っていました。
その昔、大地震で湖西の町が沈んだのを知っていましたから。
辛うじて京都人が赦せる土地は、琵琶湖の南、「南郷」でした。
当時の京都の街は借家が大半。借家の立退き料で、南郷に新築移転した人が多かったです。
つまり、洛中に住む京都人は、京都以外は本質的には全部嫌いなのです。
不思議な事に、その嫌われている土地から来た人が、十年も京都の洛中に住みますと、京都人と同じものが嫌いになるのです。そして、京都を愛し、京都を出たがらなくなるのです。
それ故、京都人が東京に行く時は、涙を流します。
「野蛮な蝦夷(えぞ)の国・お江戸へ!」
所謂「都落ち」。
京都駅ホームで行く人も見送る人も涙!
用事で行く時さえもそうでしたからね。
更に申せば、京都の人は、いつかは天皇が野蛮なお江戸から京都御所に帰ってくると密かに思っていたのです。
これら全ての事は、京都の人が「京都を愛する」故なのですね。
追記)08.02.23
【京都人が赦せる土地・南郷】
南郷の近くには、石山寺があります。
京都人が南郷に移住する人が多かったのは、この石山寺が、古来、京都人に親しまれてきたからではないでしょうか。
参考)下記は、『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
石山寺は、多くの文学作品に登場することで知られている。
『枕草子』には「寺は石山」とあり、藤原道綱母の『蜻蛉日記』では天禄元年(970年)7月の記事に登場する。
『更級日記』の筆者・菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)も長保3年(1001年)、石山寺に参篭している。
紫式部が『源氏物語』の着想を得たのも石山寺とされている。
伝承では、寛弘元年(1004年)、紫式部が当寺に参篭した際、八月十五夜の名月の晩に、「須磨」「明石」の巻の発想を得たとされ、石山寺本堂には「紫式部の間」が造られている。
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(この記事に対してコメント3個抜粋)
(抜粋1)
2008/01/31 BRG
不思議な京都中華思想。
四国人が嫌いなのに対しては少々ムッときた(全くの冗談)。
私の祖父母や親族に、四国は昔から流刑地だったから、我々の祖先は極悪人の血を混ぜないように、ヨソ者と混血しないように努めてきたんだよと、再三聞かされてきました
^^私の祖父母は従兄弟同士です。
愛媛でも東京は田舎というイメージがまだ色濃くあります。
(抜粋2)
2008/01/30 JYO
はじめまして。オカメと申します。
私は京都から忌み嫌われてると確信してしまいました。笑
(抜粋3)
2008/01/30 GEN
こんにちは。
なるほど~と、うなりながら記事を拝見していました。
確かに大阪の道は、ぐねぐねしていますね。
僕も歩いていると東西南北はわからなくなります。
道を尋ねられても、道のりは教えることはできても、
方角を教えることはできないですね。
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(註1)
平成22年度秋田大学公開講座:
中世ヨーロッパの世界 講師 佐藤猛
(源氏物語画像)
ほっこり京都人:目次
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12584192022.html?frm=theme
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