先進国での宗教色はどんどん薄まりつつある。教会やモスクへ定期的に通い、食事毎に祈りを捧げ、布教活動をするような熱心な活動家たちは少なくなった。
資本主義が進み、働いて納税して日々の生活で忙しく、また情報社会から人との繋がりや集いなどが簡単に見つかることからわざわざ宗教活動をしてコミュニティへの帰属意識を保つ必要がない。
発展途上国での宗教色はいまだに強い。
法律の代わりに宗教の掟が強く人々の慣習に入り込んでることも多い。
イスラム教の人は犬を嫌う。不浄の生き物とされているらしい。特に犬や猫の口など粘膜に触れてしまうことはタブー視されているそう。
インドネシアの方から教わり驚いた記憶がある。
人間には帰属欲求がある。
私たち日本人は国土があるため、日本人というアイデンティティが強い。移民反対派が多いのもそういった潜在意識が働き、排他的な反応を見せてしまうのかもしれない。
同じように、熱心な宗教家は側からみると、排他的に見えることが多い。それはコミュニティでもあり、自分は"この"神から命を授かり、寵愛を受け、その愛に応えるよう掟を守る内側の人間であり、違う信仰を持つ人や無宗教に近い人たちを外側の人間と見なすからだろう。
国土や信念、信仰や正義の元に争い、人は争い殺し合う。それぞれの神は、人間を創造した神はそれをどのように見ているのだろう。
旧約聖書に出てくる神は、人間を創造したが、たくさんの人間を抹殺した。神にとって命は尊い物なのだろうか。創造した者の権利として破壊する権利も得るという理論になるが、人間の命は尊いものという価値観が強く根づいた先進国の人はこの事を矛盾に感じるのだろう。
そもそも人が
産まれると同時に
死を背負うこと自体が
大きな矛盾
旧約聖書には、神は
人間を"自分に似せて"創造した
と記されている。
喜怒哀楽
無邪気で残酷で
愛情や無情
複雑と矛盾
優しさと冷たさ
自己愛と他者愛
それでもやっぱり私は人間を、自分を憎めない。
神もまた同じように、そんな人間を憎めないのだろうか…。
極端に自由と制限の二分化された世界情勢がこれ以上悪くならないことを心から願いながら見守りたい。そしてわたし自身、どちらかの価値観に偏りすぎず、また思想や宗教に対しての偏見も持たない様に穏やかでいられますように。