ねぇ、須賀くん。
君は、私がいない世界なんていらないなんて言うけれど、それはただの甘えじゃないかしら。

私の言葉に、雨に打たれ続ける黒い影のような男は、向けていた広い背をゆっくりと返した。
大粒の雨に濡れてべったりと髪の毛が顔に張り付いている。いつもの隈がこびりついた目元と相まって病人みたいだと思った。

彼の瞳が私を捉える。何色にも染まらない漆黒の瞳が、愛用の刀みたいな鋭さで射抜く。思わず怯んでしまいそうな迫力に、私はごくりと息を飲み込んだ。

彼は言葉を使いたがらない。理由は分からないけれど、声を取り戻してからもメモ会話は健在だ。けれどこんな雨の中では彼お得意の筆談は出来ない。その声をひきずりだしてやろう。

彼の名前をもう一度呼べば、彼は癖になっているポケットからメモを取り出す動作をして、すぐに止めた。手のひらをぎゅっと拳にして握り締める。そうしてまた真っ直ぐな目でこちらを見やった。


「僕、は」


小さな口を開けて語りだした。雨の音で消えてしまいそうな声。私はよく耳をすませて聞く。


「しぃちゃんがいないのなら、こんな村も、世界も、どうだっていい、って、思う」


ぽたりと彼の髪の毛から雫が落ちて頬を伝う。それはまるで涙のように見えた。


「須賀くん。そんなのおかしいよ。どうして私がいないといけないの」

「だって…。だって、しぃちゃんは、僕を助けてくれた。僕の、友達になってくれた。優しく、してくれた」

「昔の話?そんなことふつうだよ。みんなしてる」

「違う。ふつうなんかじゃない。とても、意味のあること、だ」


普段オドオドしながら話す彼が珍しくきっぱりと否定の意を述べた。その意味を私は深く受け止めなければならないと、対峙する自分を鼓舞する。

差している黄色の傘に雨粒がリズミカルに跳ね返る。濡れる彼に傘を差し伸べようと一歩を踏み出すと、須賀くんは怯えるように一歩後退した。


どうして彼は拒絶するのだろう。たった一言、私は彼に「おいで」と言っただけなのに。触れようと手を伸ばすと逃げるように離れてしまう。

私だけじゃなく、あの森の件で親しくなった佐久間ちゃんや望月巡査とも、一定以上の距離から先は近づこうとしない。それは目に見える近さではなく、心の距離だ。須賀くんはどこか私達を避けている。

だから言ってしまったのだ。たった三文字の言葉。その意味を深く伝えずとも彼は理解し、そして拒絶した。私の口から出た台詞に酷く怯えて走り去り、土砂降りの雨に打たれている。


(寒い、だろうに。どうしてそこにいるの)


冷たい雨に混じる黒いのっぽの影は、温度を嫌う生き物のように思えた。


「しぃちゃんがふつうだと思ってること。それは、僕にとって、特別で。うれし、かった」


ねえ、覚えてる?はじめて出会った時も、こんな雨が降ってた。


「…覚えてるよ。土砂降りの雨の日、須賀くん、うちの近所の森の傍で迷子になってたね」

「あの時、僕は、いじめっ子から逃げて隠れて、あそこで迷子になって。そうしたら、しぃちゃんが来てくれた。まるでね、神様みたいに、僕を助けてくれた」


次第に饒舌になっていく。目を閉じてあの日を思い返すように天を仰ぐと、また小さな声で「神様」と呟いた。


「しぃちゃんは、僕の神様なんだよ。何にもなかった弱虫の僕に手を伸ばしてくれた、神様。だけど、そんな君を、僕は危険な目にあわせた。幸せを君から奪った。僕は悪魔とか、疫病神みたいなものなのかもしれない」

「須賀くん…」

「僕は、しぃちゃんが幸せならなんでもいいんだ。そういう男なんだ。もう、二度と怖い思いはしてほしくないし、笑っていてほしい。その為なら、また何十年も独りきりになったってかまわない」


だけど。

須賀くんは呟いて、両手で顔を覆った。両手に溢れる透明の水がポタポタと地面に落ちていく。腰を屈め、堪えるように息を吐き出す。漏れた声は嗚咽に似たものだった。


「しぃちゃんがいなくなってしまったら、僕には何も残らない」

「……」

「そんな世界で生きたくない。しぃちゃんがいない世界で生きて、君を忘れてしまうなんて嫌だ。他の人と仲良くして社会に溶け込んでいくなんて考えられない。僕には、しぃちゃんだけがいればいい」

「…それなのに、私がおいでって言うと拒絶するんだね…」

「……!」

「佐久間ちゃんや望月巡査のことは?」

「…それは、」

「須賀くんの中で私が神様だから?他に何もいらないから?自分はいけない子だって思ってるから?」


違うでしょう。

私は怒鳴りつけるように叫んで、黄色の傘を放り投げた。

弾けるように須賀くんに飛び掛かり彼の胸板をぼすんと叩く。昔やった遊びではこれだけで彼はのけぞったのに、今はびくともしないで私を押さえつけている。

気弱だった幼馴染の顔を見上げると、驚愕と恐怖を滲ませた表情をこちらに向けている須賀くんがいた。

そうやって、いつまで自分を隠しているんだろう。自分を守っているんだろう。男の子なんだから、もっとしっかりしてよ。

出かけた言葉を飲み込んで、私は掴まれた手を振りほどいた。


「須賀くんは、臆病者」


私の辛らつな言葉に須賀くんが唇を噛む。それでも私は続けた。


「泣き虫。心配性。足の速い黒い電柱だし、言葉も満足に喋らない変な人」

「……」

「だけど、私はそんな君を知ってるよ。君の弱い部分を全部知ってる」


ぱしゃん。

水溜りには濡れた私と須賀くんの姿が濁って映る。びしょびしょの彼を逃がさないように、腰に両手を回した。ポタリポタリと降ってくる、彼の前髪からの雨粒。瞼に付いて目を閉じると、震える手で須賀くんが雨粒を払ってくれた。


「須賀くん。私は、神様なんかじゃないよ。ほら、私の手のひら。あったかいでしょ?」


腰に回していた手を彼の前に出す。須賀くんは黙って私の手に自分の大きな手のひらを合わせた。雨に打たれて少しひんやりしているけど、それでも失われていない温もりがそこにある。

二人の手をきゅっと絡めると、温もりは一段と温かみを増した気がした。


「きっとね。神様なんてものがいるとするなら、手は冷たいと思うの。何でだと思う?」


須賀くんが首を横に降ると、パラパラと雫がそこら中に散った。


「だって、須賀くんだけに辛い思いさせるなんて、そんな神様私は酷いヤツだと思うよ。だから、そんな神様の手は冷たい」

「…しぃちゃん」

「だから、手があったかい私は神様なんかじゃないし、神様なんてのがいても、信じるに値しない酷いヤツだよ」


何十年もこの村に縛り付けて、罪の意識を根付かせて、声を奪い、心を永久の雨模様にした。そんな運命を背負わせる神様なんて信じたくない。

須賀くん。神様なんていないんだよ。みんな本当は自由なんだよ。君のことを想う人は世の中にたくさんいて、君に出会うのを待っている。

私だってそうだ。私に縋る君じゃなくて、私と一緒に歩いてくれる君に会いたい。


「おいでよ、須賀くん」


雨が次第に小雨になっていく。雲の隙間から一瞬だけ晴れ間が見えて、光が黄色い傘を眩しく照らした。


「おいで。こっちにおいで。待ってるから」



FIN


(君は世界に愛されてここにいること。どうか忘れないで)


※お題:キミがいない世界など より