涙は下へ向かって落ちていく。その雫の行き先を、僕はいつだって眺めているから。


「あ、水たまり出来てる」


大きいねと言いながら、しぃちゃんは中庭へ出て行った。僕もその後をのろのろとついていく。

昨晩から続いた夏の嵐は今朝まで続き、古い建物である資料館をギシギシと唸らせた。嵐が来る度僕は資料館の損壊具合を心配しなければならず憂鬱な気持ちになるのだが、彼女は普段やってこないこの悪天候を楽しいイベントか何かと脳内変換しているらしく、「雷とか落ちたりするかな?」とキラキラした目で言われたのを覚えている。雷なんて落ちたら燃えてしまうかもしれないよ、しぃちゃん。いや、避雷針があるしそれは言い過ぎかもしれないけれど、まったくこの悪天候で楽しそうにいられる彼女は昔と変わっていない。

その嵐は今朝方ようやく去り、朝から僕は資料館の至るところのチェックに走っていた。普段自分でやっている洗濯物や開館前の軽い掃除も流石に手が回らなく、朝食後しぃちゃんにそれらをお願いした。彼女の手もあり僕は優先すべき仕事を終わらせ、しぃちゃんに任せていた仕事を手伝うべくリビングへ戻ると、冒頭のように彼女が中庭へ出て行くところを見たのだ。

「しぃちゃん」

僕が呼び止めると、しぃちゃんは振り返った。

「あ、須賀くん。チェック終わったの?お疲れ様!どうだった?」

「うん、とりあえず、今すぐ修理しなきゃならない、ところは無い。屋根も無事」

「この屋敷古いけど、須賀くんがこうしてチェックして直してくれてるから今もちゃんと建ってられるんだね」

ありがとう!とにぱっと彼女の笑顔が咲いて、僕はあわあわと口をぱくつかせて動揺した。本当に僕は彼女の笑顔に弱い。


両手に抱えていた籠を乾いた地面に置く。洗濯機が終わって後は干すだけのそれから一度離れ、彼女は気になっていたらしい水たまりへぴょんぴょんとステップしながら近づいてしゃがむ。

物干し竿の傍に出来た大きな水たまり。確かそこは以前から大きな窪みがあって、雨が降るといつも水たまりが出来ていた。その度洗濯物を干すのに苦労するのでよく覚えていた。

しぃちゃんがしゃがんで何の変哲も無い水たまりをじっと見つめている。その横に立って、彼女のことを僕はじっと見つめた。


「しぃちゃん。どうか、したの?」

「いやね。ほら、アメンボ」


彼女が指差した先には、水面をつうっと滑るアメンボが二匹。静かに波紋を起こして滑っている。


「あそこにはカエルがいるよ」


今度は井戸の傍を指差す。井戸の周りに生えた雑草から、ぴょこんと緑のカエルが飛び出した。まるで生き物を探す超能力みたいだな、なんて思いながら、僕は中腰になって水たまりの中を覗き込む。

嵐の去った、真っ青な空。白い雲が鮮やかに水鏡に映る。

水たまり越しの風景を見て、ふと脳裏にぼんやりと思い出が浮かび上がった。忘れもしない、彼女との出会いの日。


「…しぃちゃん、覚えてる?」

「何を?」

「僕と、しぃちゃんがはじめて出会った日の、こと」

「勿論。須賀くん、森の傍で迷子になっちゃってて。たまたま通りがかった私が資料館まで連れて帰ってきたんだよね」


僕は頷く。


あの日は雨が降っていた。土砂降りの雨。前も見えなくなるくらいのそれに僕は動けなくなって、小さくなって泣いていたんだ。


『どうして泣いているの?迷子なの?』

『雨の日は一人で外に出ちゃ危ないよ。だからうちにおいでよ』


あの時の黄色い傘は、目を閉じてもまだそこにあるように鮮明に思い出せる。あの時君は、僕に傘を傾けてくれたんだ。

ビニールから滑り落ちる雨水の雫が俯く僕の後頭部と首に当たって冷たかった。もう少し近づかないと傘の意味がない、って君は怒って。

ああ、小さな頃の僕は俯いてばかりだった。


「僕、嬉しかったことが、あるんだ」

「嬉しかったこと?」

「今だから、言えること」


水たまりに浮かぶアメンボの真似をして、指先を水たまりにちょんと浸ける。波紋が広がって、アメンボは少しだけバランスをくずした。


「あの日。お父さんに迎えに来てもらうまでしぃちゃん家に保護されて。その間、しぃちゃん、泣き止まない僕に怒ったんだよ。いい加減泣きやもうって」

「そんなこと言ったかなあ?」

「言ったんだよ。それでもぐずぐずしてる僕に、晴れたら泣きやめ!って言い始めたの。その日はそのまま迎えがきて帰ったけど…。次の日、しぃちゃん村中探し回って僕のこと見つけに来て」



――――見つけた!ああ、すがくん、また泣いてる。君と会う時、いつも泣いてるね。

――――だって…。勝手に、出てくるんだもの。僕は、…止め方を知らない。

――――こんなに晴れてるのにどうして泣けるのかな。空を見上げてごらん?

――――…ダメ。泣いてるのに、上なんて、見れないよ。



(涙は"下"に向かって流れていくんだ。空を見ながらなんて泣けないよ)



僕のことを引っ張る彼女の手は大きかった。力強くて、温かい。

雨上がりの村にはたくさんの水たまりがあって、しぃちゃんは一番大きな水たまりまで僕を引きずると、指差して言ったんだ。

――――ほら。覗いてごらん。何が映ってる?

――――おそら…。

――――でしょ。こんなにいいお天気なのに、泣いてるなんてもったいないよ。それに、君の顔。そこに映った君の顔、とってもヘン。


笑おうよ。



「……覚えてた?」

僕が改めて聞くと、しぃちゃんは顔を両手で覆って膝に埋めていた。髪の毛の間から覗く耳が真っ赤になってる。これは思い出したんだろうな。

彼女にバレないようにくすりと笑うと、僕は後ろで干されるのを待っている洗濯物に手をかける。

パン、パンと皺を伸ばして物干し竿に干される白いタオルは眩しくて、僕は思わず目を細めた。

「うう、ああ、もう!」

すっくとしぃちゃんは立ち上がる。僕の方までツカツカと歩み寄ると、僕が持っていた洗濯物をババッと取り上げ、力任せにバンバンと皺を取る。そうして僕に向き直り、真っ赤な顔をして言った。

「今、水たまりに映った私の顔も、ヘンだった!」

「…うん」

「須賀くんのせいだからね!責任とって!」

ぷりぷりと怒る彼女が背中を見せる。やっぱり耳まで真っ赤なのは治っていなくて、余計それが愛おしさを増していった。

僕は地面の水たまりに視線を少しだけやり、すぐに空を見上げる。

大丈夫、今もまだ、泣き虫だけれど。今は彼女がいるから、涙の零れる先ばかりを見つめたりしない。

「うん、しぃちゃん。責任、とるよ」

僕でよければ、と喉の奥で出かけた言葉を飲み込んで。

代わりに零れた笑みを、照れ隠しに慌てる彼女に差し出した。


<水鏡の底から>


(いつも俯いてばかりの僕でも、空の色を忘れないでいられたんだ)


FIN


琉唯@FP様のリクエスト須賀シオでしたー!ありがとうございました!