「この小瓶、一体何なのかな?」
物が少しばかり増えた僕の部屋。増えていくのは今のところ本ばかりだが、どうしてもかさばるもので。いつまでも床に積み上げているのは本が傷むし、掃除する時に邪魔だという理由から、新しく本棚を置こうということになった。
望月巡査とこの間手作りした本棚。苦労して作ったそれに増えた書物を並べていた時、不意に彼女が言った。彼女の手の中には、小さな小瓶が摘まれている。人差し指くらいの大きさの瓶だ。小瓶を窓の光に透かして、目を細くするしぃちゃんに僕は答える。
「それ、僕の」
「須賀くんの?へえ。一体何に使ってたの」
少し悩んで、質問に答える。別に隠すようなものでもないし、と作業の手を止めて窓際に歩いていく。椅子に座って小瓶を眺めているしぃちゃんの傍に来ると、僕はそっと彼女から小瓶を摘み上げた。
瓶の中身は入れていたものが乾いたせいか、水垢のようなものがこびりついて見た目には綺麗と言えない。瓶の蓋であるコルクには可愛らしいお花のシールがべったりと貼られていて、端っこが埃で浮き上がっていた。それらが僕に年月を感じさせ、胸の奥をチリリと刺激する。
あれから、もう何年も経ってしまったんだなぁ。改めて越えてきた月日、時間を思い、思わず苦笑が漏れる。
「須賀くん?」
「あ、ごめん。これ、しぃちゃん見覚えない、かな?」
「見覚え?うーん、言われてみれば、あるような、ないような…。もしかして私が関係しているの?」
「関係、というか。この小瓶、しぃちゃんから貰ったんだ」
そうなの!?と目を丸くするしぃちゃん。ああやっぱり忘れてたんだな。口には出さず微笑んで、小瓶の手の中でコロリと転がした。
途切れ途切れに見える水垢に思い出を照らし合わせると、淡く過ぎていった昔の出来事がほんのりと浮かび上がってくる。小さな彼女が僕に言った理不尽極まりない約束はすぐに鮮明と思い出された。その様子に気がついたのか、しぃちゃんは僕の肩を叩いて興味津津に言う。
「ね、教えて!」
「……」
「あっ、今少し嫌そうな顔したでしょう」
「そんなこと、ないよ!」
「あと恥ずかしそうな顔してた。隠そうったってそうはいかないよ。須賀くんは表情で何考えてるかバレバレなんだから、観念して教えなさい!」
「別に隠すつもりなんてないよ、しぃちゃん…」
さあさあ!期待に胸を膨らましている彼女を尻目に、少しの躊躇いを振り払うように溜息を吐いた。
コトンと小瓶を机において、蓋のシールを指で触る。浮き上がった端っこの部分を爪先でピンピンとはじきながら、思い出を手繰り寄せる。
「昔、僕、泣き虫だったでしょう」
「今も泣き虫じゃないかな」
「もう、これでも少しは強くなったと思ってるんだよ」
「ふふ、そうだね」
言いたいことも言えない、引っ込み思案な僕。それが彼らをイラつかせるのか、村の気の強い子ども達によくいじめられていた。母親がいない父子家庭であることも、彼らからのからかいの的だった。
言葉に詰まると涙が出た。喉の奥で引っかかって出てこない言葉の変わりに涙が零れ落ちた。殆ど癖みたいに、心が少しでも傷つけば防衛反応でボロリと雫が垂れ落ちる。
それに、彼女は我慢しかねたのだ。
「あんまりにも僕が泣き虫だから。しぃちゃんがこの小瓶をくれて、言ったんだ」
――――すがくん、泣き虫を治そう。
――――治らないよ、しぃちゃん。治らないよぉ。
――――はじめからあきらめないの。そうだ、このビンをあげるよ。
――――どうするの?
――――すがくんが、これから泣いちゃったら。その時流した涙を、ここにためるの。マンタンになったら、私の言うことをひとつ、聞いてもらうからね。
「…私そんなこと言ったっけ」
しぃちゃんは首を傾げながら難しそうな顔をする。本人に覚えは全くないようだ。彼女が覚えていなくても、僕ははっきりと記憶しているのだけれど。
「言ったんだよ。それで、毎日僕が泣いてないかチェックしはじめたんだ。学校の時も、放課後の時も。泣いてるとすぐに僕から小瓶を奪って、"はい、涙貯金ね!"って言って」
溜まっていく涙。どうしたって、すぐに泣き虫が治るなんてことはなくて。
気付けば透明の瓶に涙がたまってた。ああ、その時の君のニンマリ顔は忘れられやしない。
僕は頬にそっと指を当て、唇の端を爪で押した。
僕が言わないその話の続きをしぃちゃんが急かす。爪で押した唇の端がじんと痛んで、唇に違和感が残る。こうでもしないと、ニヤついてしまいそうだった。
「それで?その後どうしたの?満タンになったんでしょ、須賀くんのことだから!」
「言い方酷いよ。しぃちゃん」
「だって、ほら。須賀くんだし」
「なんだか悔しいな…。確かに、たまった、けど」
「言うことって何だったの?きっと私のことだから、戦いごっこに無理矢理参加させたのかなー?」
「(それは確かに否定できない、けど)」
唇が、甘く痛む。
――――ビンがいっぱいになったね!約束だよ、すがくん。言うことを聞いてもらいましょう!
――――う、うん。僕が、泣き虫治らなかったのが、いけないから…。
――――ほらあ、泣かないの。んーとね、じゃあ、命令!
小さなあの子の手が、僕の頬を伝う涙を荒っぽく拭う。
――――ちゃんと、いつか、泣き虫をコクフクすること!
――――え?そんな命令で、いいの?しぃちゃん、何にも得しないよ。
――――いいんだよ。ああ、じゃあ、代わりに人質をいただこう!
すがくん、こっち向いて。目を閉じてね。
それで、息をとめるの。
「……」
「須賀くん?おーい?」
「…え?」
「ぼんやりして大丈夫?さっきからやたら唇触ってるけど、どうかしたの?」
「あ、ええと。なんでも、ない。ちょっと唇、乾いてるだけ」
「あらら。須賀くん、男の子でもリップは塗った方がいいよ。唇は大事にしないとね!色んな意味でも!」
笑顔で僕にそう指摘する。それはこっちのセリフなんだけどなあ、なんて思うも、今更明かすことも出来ない。
それで結局どんな命令されたの、としぃちゃんが思い出したように聞くので、僕は「戦いごっこを一週間続けてやったんだよ」と誤魔化した。
そりゃあ辛い命令だったね。彼女は明るく笑って立ち上がると、机に置いていた小瓶を掴んで尋ねた。
「ねえ、これ貰っていいかな?」
「小瓶を?別に、かまわないけど」
「ありがとう!…えへへ。じゃあ、これでまた涙をためようか!」
ぎょっとして彼女を凝視すると、しぃちゃんは楽しそうにケラケラ笑い声を上げる。
いいでしょう、別に。また約束しようよ。涙がたまったら、またひとつ、命令をきいてもらうから。
言い出したしぃちゃんは止まらない。僕に拒否する権利なんてくれない。それでも、僕は彼女を嫌だと感じたことは一度だって無かった。だって、僕はしぃちゃんのことが。
「人質、まだ返してあげてないよね」
「――――!」
「今度は頑張ってね、須賀くん」
しぃちゃん。本当は覚えているの?
僕が問い詰める前に、彼女は踊るようにくるりとターンして部屋を出て行ってしまった。
「…涙がたまる前に、リップ、買わなきゃなぁ…」
(君に奪われた僕の唇、今度は奪い返しにいくから)