昨日観た「死について」と同じ「ガザ・モノローグ」を見ていたら、知った名前が出ていました。

「一瞬」という7分に満たない動画です。

「織田あいか」という名前。

この作品はあいかちゃんともう一人「日下諭」という方の二人で読むものでした。

ガザに住んでいてミサイル攻撃で亡くなった女性と友人の男性の物語。

男性もやはり亡くなっていたようです。

きっと気が付く間もなく身体がちぎれ飛んでしまったのでしょう。。。。。

「死」とは、それほど突然に訪れるものであり、ばらばらにちぎれ飛んだ身体の一部分からでは身元の確認もできないようです。

 

この二人は、まだお付き合いをしていた訳ではないんですが、お互いを思いあっていたようです。

死後、二人の魂はお互いが愛し合っていたことを告白しあいます。

ですが、、、、、

悲しいですよね。

ミサイルの発射操作をする兵士には、その操作がどういう結果をもたらすのか、想像しにくいでしょうね。

目の前に相手がいるわけでもなく、銃を撃つような反動もなく、目標物に当たったことを直視できるわけでもなく、ましてや爆発した際の爆音も閃光も衝撃も感じることができるわけでもなく、建物が破壊されるところを見るわけでもなく、人々がどうなったのか確認できるわけでもない。

後で、映像で「攻撃があった」としか伝えられない。。。。。

そういう戦争をしているんですから。

ミサイルだけでなく無人の兵器、ドローンなどが多く使われ、、現に戦場で銃撃戦をしているような兵士以外は、その「スイッチを押す」ことがどれほどの人の命、財産、時には歴史的価値のある人類の遺産さえ破壊している実感のない「戦争」をしている兵士も多いのかもしれません。

 

昔は戦争を指揮したトップは安全なところから命令し、命を落とすのは兵士だけでしたが、、、今ではその兵士も安全な場所にいることも多いのでしょう。

死ぬのは非戦闘員ばかりということになりつつあるのが現代の戦争なのかもしれません。

二人は死んでからしかお互いの思いを伝え合えませんでした。

でもそれは二人が悪かったからでしょうか?

戦争、、、破壊と虐殺、憎しみしか生みださない戦争を私たちはいつまで続けるのでしょう?

死んでからでは、思いは伝わりませんよ。。。。

 

このお話で気になった表現がありました。

「私は『殉教』した」、「あなたも『殉教』した」、、、

「殉教」って、、、二人の死は本当に『殉教』だったのですか?

ミサイル攻撃で爆死することが『殉教』なんでしょうか?

殉教って自分の信仰する宗教のために死を選ぶことですよね。

この死は本当に「殉教」なんですか?

人々の心の平安ためにあるのが宗教なんじゃないの?

昨日も書いたように何で死んだかもわからないようなミサイル攻撃による死は、私には殉教とは思えません。

もし、これが殉教だというなら、ユダヤ教とイスラム教の宗教に根差す戦争でお互いの信仰心のためにミサイルを発射したというなら、そんな宗教はなくした方がいい。

少なくとも自らが信じる神のために戦い死んだという認識もできないような死を「殉教」というような宗教なら、そんなものは人々の心に平安をもたらすことなどあるはずがない、、、ではないでしょうか?

 

織田さん「殉教」って、朗読していて違和感なかったですか?

勿論作者はアラブの方なので、日本に住む私たちとは感覚が違っているんだろうと思います。

死後とはいえ愛を語り合う二人に、この状況での死を「殉教」と言っては欲しくないなぁ。。。。

私はそう感じました。

 

イスラエルの人々も過去2000年に及ぶ苦難の歴史を歩んできた民族あるなら、自らが他の民族の人々に同じ道を歩ませようとしてはならないと思って欲しいです。

貴方たちがやっていることは、今まであなた方がやられてきたことですよ。

 

ハマスの人々、あなたたちの主義主張を否定はしません。

ですがあなた方の行動を素直に認めることもできません。

奇襲をかけて民間人の人質をとることに、正義はあるんでしょうか?

あなたたちの主張する正義のために同胞の多くが死を迎え、苦しむことになることを思えなかったのでしょうか?

 

戦いは破壊と死と憎しみしか生みだしません。