こんばんわー。 さて 今年一月の 律動法の療法者の青木さんを招いての NZ北島の診療の旅のお手伝いをして以来 一つ気になりだしているものがあるんですが それが “氣” というものなんですよね。

 

ここで "氣” と旧字体を使ったのは意味がありまして 私が気になっているのは 古代中国 最古の書物と一つと考えられている  ”易経” にすでに記載がある よく英語で Chi とか Xi と表記される 恐らく スターウォーズのジェダイの ”フォース” のもととなっている “氣” の事なんですよね。

 

青木さんが学んでいる 律動法というのは 茂木昭さんという方が創始されたもので 青木さんから この茂木さんの著作のひとつをお土産として頂いたんですが それが ”気の治療学” という題名だったので この治療は “氣の治療”と考えてさすがに間違いないかと思います。

 

ただ これ青木さん自身言われてたことなんですが あおきさん自身 最初 “氣” とかって 全く信じてなくて ずっと ”抵抗”があったらしいんですよね。 で私自身 気功だの 霊気だの言われると ずーっと 私には関係のない 胡散臭い世界みたいなイメージがあったんで この ”抵抗”というもの すごくよくわかったんですよね。 で 最近 なんで こういうものに こんなに ”抵抗”があるんだろうと 不思議に思うようになってきました。

 

そういえば 合気道の 塩田剛三師のお孫さんが 師の内弟子の方々にインタビューされてるの聞いてても ”合気道” という 其の名前からして "氣”の武道であるのは間違いないはずなのに その合気道家の方々自身にも 同じように “氣” というもの自体に 抵抗があるように聞こえていて 余り信じていなかったような口ぶりなんですよね。 で 塩田剛三師自体 晩年になるまで 余り 氣のことは言われてなかったそうですし どうも動画なんかの師の口ぶりからも この方 ずーっと 氣を否定して合気度取り組んでこられたんだろうなーという雰囲気を すごく感じるんですよね。

 

日本語には 元々 ”気” が付く言葉 すごく多いですよね。 ただ 最近になって ようやく気が付いたグラサンのは 私が何となく 漠然に 一般的な 今の意味での ”気” でとらえてたものを “氣”でとらえなおすと とたんに その言葉の意味がはっきりしてきて しかも自分が認識していた物と 真逆の意味だったりすることがあるんですよねびっくり

 

このうちのひとつの例が 先日上げた "氣の所為” なんですよね。 これ 我々が普段よく使う ”気のせい” という言葉 元々こう書くものなんだそうですが ”気のせい” (何々だと思ったけど 気のせいだった)見たいに昨今 勘違いしたものみたいな 否定的な意味で 一般的に使われてると思うんですが 此れもともと 氣の為せる所。 まあある意味 ヨーダにでもいわせれば ”フォースの意思”とでもいうか そんな意味なんで 今の使い方と ほぼ逆の意味になりますよねびっくり

 

だから もともと ”気の所為” というのは 気のせいだから間違いなんじゃなくて 例えば 長嶋さんの ”動物的勘” みたいな 所謂 ”インスピレーション” 頭でぐちゃぐちゃ考えた事より よっぽど精度の高い ”勘” といわれるものに近いと思うんですよね。 で 何故日本語で そういうものは ”気のせい”と まるでダメなもののように扱われるようになったのか 非常に興味深く思うようになってきました。

 

そういえば 科学とかでの 物凄い発明 発見とか ビジネスの世界で 大きなことを成し遂げるヒトとかの話聞いてても この  ”インスピレーション” というものから それが導かれたという人が やたら多いんですよね。 八尾彰一さんという 日本のトライアスロンの第一人者のひとりの方のブログで 城本徳満さんという ずーっと 世界記録で コナで世界一になるんだといい続けていて 実際にその夢をかなえられた 物凄い方の存在を教えていただいたんですが この記事によると

 

 
城本さんは 
 

’やりたい練習をする。

 

潜在意識にアプローチして

 

インスピレーションでPDCAサイクルをまわす

 

教科書を持たない本物”

 

だったそうですし。   ただ どうも今の日本語では この ”インスピレーション” つまり "氣の所為” が ”気のせい” つまり 間違いのようにとらえられがちのようなんで この辺面白いなーと思いはじめています。

 

 

で 上に書いたように "氣” という もう 何千年も我々とともにある。 つまり 時間 土地を超えて 語り継がれてきたコンセプトのことに ”抵抗”を感じる日本人って 私だけでは無いようなんですが そのくせ 私なんかは まあ 今のサイエンスとかの理論なんて十年もたてば 9割がたは 間違っていると証明されると 科学者自身が言っているというのに ”エビダンスに基づいた 最新の科学理論” とか言われると 結構疑いものなく鵜呑みにしてしまうようなんで 俺の頭の中 どうなってんだ? と 正気さをうたがうようになってきていますショボーン

 

まあでも 百聞は一見に如かずとよく言いますが 今回の 診療の旅のような経験をすると 氣の世界の話しって 疑う疑わないとかの話では無くなって ただの ”事実”になってしまいましたびっくり で それが ”事実”となることで いろいろ 物事の見え方が変わってきてるように思います。 

 

世に ”病は気から” という言葉がありますが これどうも ”病は 「氣」から” と取った方が 意味が分かりやすいようにい思うんですよね。 で 律動法が 体に触れずとも効果があるのは “氣の治療” 要するにすべての根源の治療だから。 それだけのことなのかと思います。 

 

ちなみに 此れまでの青木さんの施術で実際の効果を見たのは 重度の捻挫から 不眠症迄と 物凄く幅広いんですが その経験の中で学んだのは 元々 心と体 ひとつのものなのに それを分けて考えてしまうから わけ分らなくなってるんじゃないかという事なんですよね。 ”心身統一”なんて言葉がありますが 元々一つの物を 人間がわけてしまうから 本来の事象㋾取り違えているからこういう言葉が存在する。 どうもそういう事なんじゃないかと思いはじめています。

 

そういえば 私最近 気になった言葉 (また 気が付きますねグラサン) 語源を調べてみる癖があったんですが なんか ”気”が 気になり始めた時 ”元気”という言葉調べてみてびっくりしました。 その時目に飛び込んできたのが この言葉だったんですが

 

”中国の宇宙生成論で 万物生成の根本となる 精氣” 

 

これが 元気のもともとの意味で 要するにこれ ジェダイの”フォース” って 此処から来てるんでしょうね。 (猪木さんの ”元気があれば何でもできる” も まあ ”真実”という事二なるかと思いました)

 

 

私が 今回 青木さんという方と出会い ともに旅することになったのは 以前ブログに書いたように 運命の歯車。 律動法の創始者の茂木さんの表現借りれば "氣綱”。 こういうものの存在を感じざるを得なかったんですが よくよく考えてみると 私の人生に起こったさまざまな出来事 これらもすべてそこには ”氣の所為” つまり 氣の導きのようなものを感じるようになってきました。 なので 持久系自体が苦手な私が NZにわたり住み IMNZというレースに出会い ”脱力という極意”を目指しはじめたのも これも ”氣の所為”なのかなーと そんな風に思いはじめていますキョロキョロ

 

私 、前に何度か ”私の取組み 自分のコントロール下に無くなってきている” という旨の事書いてるんですが よくよく考えてみると 元々 持久系のスポーツ自体が 苦手なだけでなく大嫌いだった私が 其の最高峰のひとつである アイアンマンに挑み始めたこと自体 偶然に偶然が重なって起きた事であり もともと それ自体 まったく ”自分のコントロール下にはなかった” 出来事だったようなんですよねびっくり

 

でまあ よくよく考えてみると 私 若い頃の経験から 嫌いだと 重々分かっていた持久系に手を出したこと自体 どうもNZ  しかも タウポサイクルチャレンジ アイアンマンNZという 持久系のNZの二大イベントがある タウポに住み着いたことが理由だったようで 私日本に住んでたら もしかしたら 持久系自体 手を出していなかったんじゃないかと思うんですよね。

 

で 私 さらにさかのぼると 元々 日本で スポーツさえできてりゃ それで大満足だった人間何で 高校の時とか 外国自体 まったく興味もなくて 英語なんて 一秒も勉強してなかったんで 10段階で 1とか2をうろちょろしてたとか そんなタイプだったんですよね爆  笑 

 

まあ そんな私が 今は 外国に住んでるわけなんで 人生どこでどうなるか 全く分からないものなわけなんですが 要するに 私の人生って 元々 私のコントロール下にはなかったもののようで まさに "氣の所為” そのものだったように 思いはじめています。

 

まあ 私 所謂 "天賦の才”  で 自分 に備わっていた物が ずっと大嫌いで そういうものに抗って それなりにはのしてっきた人間だと思ってたんで 運命とか そういう言葉大嫌いで 天に唾はいて生きてきた人間だったんですが 最近どうも心が軽くなり始めているようで もしすべてが“氣の所為”であったとしても それはそれで構わないという想いになってきてるように思います。 というのも それならそれで 思いきり暴れまくって 楽しみまくってしまえばよい そういうものの見方になってきてるようなんで。

 

私 ことし見つけたこちらの動画に感化されて

 

 

 

レースレポに ”常識は破るもの。 限界は 自分で 確かめるもの。 現実は 自分で作り出していくもの。”と書いていたんですが どうやら 特に最後の ”現実は自分で作り出していくもの”は 私自身の言葉だったようです。 で よく考えてみたら 私 ずーっとそうやって生きてきたから こういう言葉が出てきたようですね。 なので これからも 未来の自分のとっての 現実を自分で作り上げていくための 全ての瞬間の精一杯の努力 積み重ねていこうとおもっています ニコニコ