いつ頃まで愛媛県立中央病院に通院していたのか覚えていませんが、途中から個人病院の藤山糖尿病・代謝内科に通うようになりました。弟が亡くなった2019年4月までこの病院に通院していました。糖尿病性網膜症で失明したのもこの病院に通院していた時でした。

この病院も2020年頃にはつぶれてしまいました。

妹が1型糖尿病になった昭和50年(1975年)から母が注射をしていました。その頃は注射器も針も使い捨てではなく、煮沸消毒して何度も使っていました。

いつ頃かは覚えていませんが平成ではなく昭和の終わりの方だと思いますが、使い捨ての注射器と針を使うようになりました。

母の甲状腺がんが悪くなった昭和62年(1987年)頃までは母が注射をしていたように思います。平成に入った頃は妹が自分で注射をしていました。

昔のことなのではっきりとは覚えていませんが1975年の10月か11月に愛媛県立中央病院に入院したのではないかと思います。1ヶ月くらい入院していたと思います。

この入院のせいで、退院してから糖尿病、糖尿病といじめられ学校へ行かなくなり、実質は小学校6年7月までしか通っていないのではないかと思います。小学校は卒業したことになっているのか、中学校も入学したのかどうか、本人も両親も亡くなっているのでわかりません。

 

風邪と診断されて良くならないので、愛媛県松山市土橋町にある土橋共立病院を受診しました。昭和47年に開設したそうなので、受診した昭和50年はまだ建物も新しかったのだと思います。

そこで1型糖尿病と診断されて、愛媛県立中央病院を受診するように言われたそうです。

妹が1型糖尿病になったのは小学校6年生の時だったと思います。昭和50年(1975年)の夏休みが終わった9月頃だったと思います。

母が美川診療所へ連れて行ったそうです。当時は美川村立の診療所でした。今は場所も変わって民間委託のみかわクリニックに変わっているようです。その時は風邪だという診断でした。しかしいつまで経っても良くならないので他の病院で診てもらうことになりました。

2019年8月31日(土)
暑いので勝手口を開けたままにしていたら妹が転落しました。トイレだと思ってそのまま前に進んだのだそうです。

痛いという声がして行ってみると、外に倒れていました。急いで室内に入れ寝かしました。ちょうど昼食前だったので血糖値測定、食事をさせてから救急車を呼びました。

平成脳神経外科病院へ運ばれました。幸いなことに骨折はしていませんでした。頭にたんこぶができ足首がねんざをしていました。足首の靭帯損傷だそうです。入院が必要だと言われました。

入院はしたくないので家へ帰りたいと言って聞きませんでした。私に付き添ってもらえば良いと看護師が言うと、妹は入院を了承しました。それで仕方なく個室に入って入院することにしました。バスで家へ帰り、必要な物を持って自転車で病院へ戻りました。

2019年9月7日(土)
医師は1ヶ月くらい入院してリハビリをした方が良いと言いましたが、妹は退院したいというので退院することになりました。砥部町社協のケアマネージャーが呼んでくれた軽自動車の介護タクシーで帰宅しました。玄関の段差が高いので車椅子を室内に入れるのに苦労しました。タクシー運転手が女性なのもあって力がないから余計大変でした。

南高井病院退院後は藤山糖尿病・代謝内科(愛媛県松山市三番町6丁目7-5 2020年頃に閉院)の受診を妹は希望していましたが、2019年8月28日に藤山内科を受診した後で、今後の受診は断ると南高井病院地域連携室へ電話がありました。それであらたま内科・糖尿病内科で診てもらうことにして、8月29日に初めて受診しました。

妹は血液検査や尿検査をして、私は血糖値の測り方を看護師から教えてもらいました。採血やセンサーに血を付けるのが案外難しかったです。

8月31日には自宅勝手口から転落して平成脳神経外科病院に入院、11月15日には久米病院精神科に入院、2020年3月8日には自宅階段から転落して済生会松山病院に入院と、外来受診が中断することになりました。

3月8日の日曜日に電話した時に留守番電話になっていて医師につながらず、緊急時の対応に不安があったので久米病院内科に変えることにしました。外から院内に入るのに段差があって、妹が怖いと言っていたのも理由です。また血糖値がどうなっているか聞くから電話すると言われたことが二度あったのですが、二度とも電話がかかってこなかったことも理由の一つです。

2020年7月10日の受診を最後に久米病院内科に変わりました。

 

 

2019年8月28日(水)

南高井病院地域連携室職員に言われて藤山糖尿病・代謝内科(松山市三番町6丁目7-5)を受診しました。まだ入院しているのに、どうしてわざわざ外来で受診しないといけないのだろうかと不思議に思いました。

わざわざタクシーで来たというのに、血液検査等は一切ありませんでした。妹がしきりに南高井病院から転院したいと訴えていました。私も何とか転院できるように、転院できる病院を紹介してくれないかとお願いしましたが、それはできないと言われました。

無駄な受診だったと思いながら、タクシーを呼びましたが、帰りたくないとタクシーになかなか乗らず往生しました。南高井病院に着いてもタクシーからなかなか降りずに困りました。

南高井病院に着いて、ストレッチャーで何とか病棟へ戻り昼食を取りました。地域連携室職員から藤山糖尿病・代謝内科から今後の診察は断るとの電話があったと言われました。藤山糖尿病・代謝内科との付き合いは、妹がおそらく10代の頃からだろうから、40年位になるのではないかと思います。

藤山糖尿病・代謝内科は2020年頃に閉院したようです。

 

 

 

ショートステイ超に入所していた妹は2019年5月14日に南高井病院に入院しました。どういう経緯で入院したのか聞いていませんが、入院時は血糖値が600以上あって、測定器では測れなかったと主治医寺岡秀郎が言っていました。なかなか血糖値が下がらないので、あめでも隠し持っていて食べているのではないかと疑ったそうです。全盲で、一人では院内の売店に買い物にさえ行けないのに、あめなんか持っているはずがありません。医者なのに、他に原因があると思わなかったのでしょうか。

 

全盲で携帯電話も持っていないし、かけることもできないので手紙を送ろうと思いました。問い合わせると、職員が読んで聞かせるということだったので、手紙を8通出したのですが、妹の手元に行った手紙は1通だけで、しかも読み聞かせたのは職員ではなくて面会に行ったおじさんでした。他の手紙は地域連携室職員と主治医寺岡秀郎が勝手に開封して読み、事務室に保管していました。

 

他人あての郵便物を開封する行為は、刑法第133条の「信書開封罪」にあたります。

 

南高井病院は平気で犯罪行為を犯す病院です。恐ろしいです。

 

妹は転院したいと言っていました。私からも主治医寺岡秀郎に伝えると、診療情報提供書は書かないから、勝手に転院先を探してくれと言われました。

 

南高井病院は施設への入所をすすめていましたが、妹は嫌がっていました。私の方でも転院できるところはないかと問い合わせましたが、病院の地域連携室を通しての転院でないと駄目だと言われました。

 

八方ふさがりの中、私が同居して妹の介護をするしかないと思いました。

 

退院前に以前の主治医だった藤山内科を受診してくれと言われ、8月28日に受診しました。そこでは転院したい、南高井病院には戻りたくないとごねました。

 

何とかなだめすかして、タクシーで南高井病院に戻りましたが、そこでも地面に座り込んで、なかなか病室に戻りませんでした。何とかなだめて、病室に戻りましたが、いきなり主治医寺岡秀郎から今すぐ退院してくれと言われ、退院することになってしまいました。念書まで書かされました。

 

寺岡秀郎

 

南高井病院念書

2019年4月28日に弟が亡くなりました。父と母が亡くなった後は、弟が妹の面倒を見ていました。

私は大阪で暮らしていたので、すぐに同居するということができませんでした。それに、妹が失明してからはインスリン注射を弟がやっていたので、私は注射の仕方を知りませんでした。

4月28日の夜にショートスティ超に入所することになりました。

5月14日には南高井病院に入院することになりました。

 

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