聖書を理解する 73号 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

●疑問点➡善悪の知恵があると

●考察➡善悪の知恵の木を食べてしまうと生命の木は食べれないように神様がされている、人が神のようになってはいけないからとなっています、日月神示には皆々神ぞと出て来ます、皆々釈迦ぞ、キリストぞとなっています、理解に苦しむところですが、皆さんが釈迦やキリストになることはありません、何十億の人がこの世に産まれて死んでもお釈迦様は一人、イエス様は一人です、後にも先にも同じ方は出ません、クローン人間とは違います、日月神示では大工は大工、左官は左官であるとも出て来ます、それぞれの役目や仕事があるということです、日月神示では今の仕事を五倍も十倍も精を出して精進しなさいとなっています、皆が釈迦になったりキリストになったりする内容はトリックだと思われます、日月神示はたくさんの神様を登場させて、てんし様を拝めとなっています、クニトコタチやスサナル神様も拝めとなっていますが、こちらで紹介しているのはイエス様だけです、善悪の知恵の木を食べた方はイエス様だけを愛することは出来ません、神様がそうされているのですから無理というものです、努力とか修行とか知識で何とかなるものではありません、イエス様を信じるイエス様を愛するという信仰は善悪の知恵の木を食べた人には出来ないと書かせていただいています、理解出来ないで気分を悪くされる方もいると思いますが、イエス様を神様(主)とする信仰は善悪の知恵があってはならないのです、自分は出来るという高慢や慢心があればイエス様信仰は出来ません、パリサイ派の特徴は自分は週に二回断食をして献金をしているという自慢です、何かをしているから正しい信仰だと思い込んだら善悪の知恵です、クリスチャンの特徴はイエス様を愛するより自分の所属する教会を愛しています、教会が花嫁だとか信じています、イエス様の花嫁が教会になることはありません、イエス様が教会と結婚するのでしょうか、確かに信仰してる人が集まるのは教会ですが、教会単位で救われることはありません、教会にもいろいろな人がいてヨハネの黙示録で指摘されているように良い面も悪い面もあります、どちらにしろ善悪の知恵の木を食べた人は生命の木は食べれないという原則は教会では教えないです、パウロの福音を食べた人はイエス様の福音は聞くことは出来ません、何を申し上げても無駄だと分かります、宗教のおそろしいところは一度信じたら抜け出せない、地獄とは抜け出る出口が無い世界、出口がどこにあるか分からない、一度入ると抜け出せないらしいです、自分が正しいと思い込むと抜け出せないのが人です、聖書は一貫して人は罪人だとなっています、罪人が良い人になる方法はありませんが罪人がイエス様を信じると救われて永遠の命をプレゼントされるということです、罪人になるということが善悪の知恵を捨てることなのです、完全な罪人になると裁かれるだけで裁くことはしません、自分が他者を裁いているのは罪人の自覚が足りないのです、聖書のコツは完全な罪人になることなのです、中途半端な罪人は救わないのが聖書の神様の特徴なのです、悪が満ちると登場するのが神様です、九分九厘悪くなって登場するのが神様、ですから自分を完全な罪人にしないと救われないのです、宗教をやられている人の特徴は良い人になろうと頑張っている、この世で良い人になることは出来ません、正しい者は一人もいないと書かれているのが聖書なのです、修行して努力しても正しい者になれないのです、自分で出来るのは罪人自覚です、なまぬるい罪人では救われないのです、街に50人の正しい者がいたら滅ぼさない、40人でも滅ぼさない、30人でも滅ぼさない、、だけどソドムの街は滅んでしまいました、ロトと娘二人だけが逃げ延びました、ロトの奥さんは後ろを振り向いたので死にました、イエス様信仰とは完全な罪人になり後ろを見ないでイエス様にすがることでは、善人の顔をした悪では救われないです、悪の顔をした悪でないと。