聖書を理解する 58号 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

●疑問点➡山上の垂訓はイエス様の教え

●考察➡イエスは群衆を見て山に登り、座につかれると弟子たちがみもとに近寄ってきた、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた「こころの貧しい人たちは幸いである、天国は彼らのものである、悲しんでいる人たちは幸いである、彼らは慰められるであろう、柔和な人たちは幸いである、彼らは地を受けつぐであろう、義に飢えかわいている人たちは幸いである、彼らは飽き足りるようになるであろう、あわれみ深い人たちは幸いである、彼らはあわれみを受けるであろう、心の清い人たちは幸いである、彼らは神を見るであろう、平和をつくり出す人たちは幸いである、彼らは神の子と呼ばれるであろう、義のために迫害されて来た人たちは幸いである、天国は彼らのものである、わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは幸いである、喜びよろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい、あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである、あなたがたは、地の塩である、もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか、もはやなんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけである、あなたがたは世の光である。山の上にある町は隠れることができない、また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない、むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである、そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい、わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである、よく言っておく、天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである、それだから、これらの最も小さい戒めの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう、しかしこれを行いまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう、わたしは言っておく、あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に入ることはできない

本日は長くなりましたが山上の垂訓です、幸せになる垂訓です、ただし何度も紹介して来たようにこの地はアダムの罪で汚れたので「労苦の世界」になりました、労苦の世界で幸せになることは出来ませんのでイエス様も幸せは天での報いだと申しています、この地で幸せになる教えではありません、迫害されて幸せになることはありません、正しい信仰をして迫害される世界で幸せになるのではなく、天に行って幸せになれるとなっています、この世で幸せになれる教えは無いのか、、残念ですが人は老いて死んで一人もこの世にとどまることは出来ません、目に見える姿で永遠に生きている人はいないのです、幸せになれない世界で幸せになるには、幸せになる希望と行いです、パリサイ派の義に勝る行いをしないと天国には決して入れないのです、パリサイ派の義とは律法を守ろうとする義です、天国に入るにはイエス様を受け入れる義となります、心を清くして心を平和にして心を空にしてあわれみ深い人になって人々から迫害されていつも悲しんでいなければなりません、いつもニコニコしていてはいけないのです、だから誰も幸せになれません、正義が通用しない世界でうまく行かないと悲しんでいることです、それでいいのだとなっています、2000年前のイエス様はうまく行きませんでした、福音を伝えたのに今の世界はパウロの福音です、この世でうまく行かない事が天での幸せになるのです、この世でうまく行った人は自分で満足してしまうのです、自己満足では天国に行けないので幸せになれないのです、この世に産まれてうまく行きませんでした、義を求めたのですがダメでした、人々に踏みつけられました、何をしても悲しいです、、審判はイエス様にゆだねます、善悪の知恵は自分にはありません、良いも悪いもイエス様のものです、神様は良い人を創造されたのか悪い人を創造されたのか、さっぱり分かりません、心を空しくして心にイエス様を満たすこと、普通の人は心に一杯の心配や取り越し苦労、そして限りない欲望で満ちているので、イエス様が入る余地が無いのです、客間は群衆で満席でイエス様は飼い葉おけで寝ているのです、この世の「わずらい」で幸せにはなれないですが、普通の人はこの世のわずらいで生きているのです、結論は心にイエス様を満たすことだけです。