聖書を理解する 57号 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

●疑問点➡幸せについて、イエス様の教え

●考察➡この世では信仰しても修行をしても幸福にはなれないと書いています、聖書には幸せになる方法はいくつかあります、方法はあるのですが誰も出来ないから無理だと書かせていただいています、先ず心の貧しい者は幸いであるとイエス様は教えています、義に飢え渇いている者も幸せだと教えています、あわれみ深い者も幸せだと教えています、幸せな者をすべて調べて紹介しても誰も幸せになれないのです、だから無駄だと書いているのです、マラソンを2時間以内に走れば幸せになれるという教えがあるとして今まで誰も到達していませんし、普通の人はとても無理な条件です、イエス様の教える幸せの条件は誰も満たせないから無理だと書かせていただいています、日月神示を声を出して70回以上読めという指示がありますが、理解出来なければお出直しだともあります、人に無理なことをさせるのが神様なのか疑問に思うのですが、無理するなとも申しています、やれとかやるなとか一体誰が出来るのでしょう、出来ない人を創造してやれと言うのはおかしな話なのです、掃除機を製造して食品を冷やせと命令出来るでしょうか、人を創造されたのは神様であると聖書ではハッキリしています、罪を犯したのは人であるとハッキリしています、だから罪を犯す人を創造されたのは神様なのです、罪を犯さない人を創造されたならば人は罪の奴隷にはなりません、聖書全体の流れは人が罪を犯して、どうにもならないからメシアが来て救うという結論です、メシアが来て世界を救うと決まっているのです、2000年前に来たメシアは苦しみを受けて殺される、再臨されるメシアは人の判断には屈しない、人の裁きには応じない、人が何と叫んでも通用しない、話し合いは無い、一刀両断だけがある、人を右と左に別ける、右になった人は幸せになれる左になった人は泣き叫ぶだけ、心が貧しいか義に飢え渇いているかあわれみ深いか、判断基準はイエス様の心です、イエス様の心で決まるのです、イエス様は自分の罪のために身代わりに死んでくれた、贖罪(しょくざい)をしてくれた、罪の代価は払ってくれたと教えられているキリスト教の信者は幸せになれるでしょうか、自分の罪の代価を払うにはどうするか書かれているのが聖書です、イエス様はあわれみ深いのでイエス様をメシア・救い主と信じた者は間違い無く救うという信仰です、十字架で身代わりに死んでくれたと言う信仰はイエス様を動物のように簡単に殺すあわれみの無い信仰なので幸せになれないのです、心は貧しくても義に飢え渇いていても、あわれみが無いと救われないのがイエス様の教えです、いけにえではなくあわれみです、イエス様のあわれみで罪人を救うのですから、心が貧しい人、義に飢え渇いている人はイエス様のあわれみを受けやすいのです、逆に高慢で贅沢をしているような人はあわれみを受けにくいです、あわれみを受けやすいか受けにくいか、聖書はあわれみを受けやすい人になれと教えているのです、イエス様の十字架で救われたと信じている者は、、あわれみを受ける余地が無いのです、自分は救われたと勝手に言っているので救いの余地がないのです、すべてをイエス様に任せる余地が必要です、余地のある人は貧しいから救いやすいのです、心の貧しい人も義に飢え渇いている人も心にイエス様が入る余地があるということです、イエス様が入る余地が無い人はどうやっても救えないのです、心が自分のことで満杯なのです、イエス様が入る余地があるか、ないか、わたしは「ある」、神様の名前は「わたしはある」です、わたしは心が貧しいからイエス様が入る余地がたくさん「ある」、だから幸せになれるのです、こんな幸せは無いのです、こんな幸せは無いから「幸せは無い」と書いています、この世の人はイエス様を心に入れる余地より食べたり飲んだりする余地ばかり追いかけているので、幸せにはなれないと聖書は教えているのです。