聖書を理解する 56号 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

●疑問点➡キリスト教はイエス様の教えとは違う

●考察➡今まで2000年間くらいキリスト教は世界に大きな影響を与えて来ました、何度も考察したようにキリスト教では誰も幸せになれない、聖書は未来の約束の書であり、イエス様を心から信じた者が別の世界に招かれて幸せに暮らせるのです、イエス様が再臨される、迎えに来るのが正しい理解なのです、迎えに来るまでに油が切れてしまい準備不足で間に合わない人も半分はいるという「たとえ」もあるくらいです、不信仰の人、途中で信仰をやめる人などが続出するのです、信仰の油が切れたので他人に油を分けてくださいと言っても、信仰の油なのでどうにもならないのです、ガソリンでは無いのです、信仰のエネルギーは他人にはあげることが出来ないのです、油を分けてくれないので冷たい人だとは言えないのです、熱烈な信者さんのエネルギーを分けてくださいとはならないのです、自分の信仰のエネルギーは自分のことなのです、イエス様と結ばれるエネルギーは自分のエネルギーだとなるのです、貧乏でも病気でもイエス様を求めるエネルギーは持てるのです、信仰とはエネルギーの問題です、人々には神様を信じるエネルギーが無いので死んで冷たくなるのです、イエス様に対して冷たいから死ぬのです、ユダヤの民はイエス様が産まれた時から冷たいのです、イエス様は飼い葉おけに寝かされたのです、ユダヤの王が誕生して飼い葉桶に寝かされた、客間にはイエス様の泊まる場所が無かった、そしてイエス様は命まで狙われてエジプトに逃れていた、ヘロデ王が死んでやっと故郷に戻ることが出来た、イエス様は神と人とに愛されたと聖書に書かれていますが、神様には愛されたが人から冷たくされたのです、産まれた時から冷たくされてさらに冷たくされて十字架で寒い日に裸にされて殺されたのです、十字架とは身代わりに犠牲となって死んでくれた贖罪だったとキリスト教はウソの教えで十字架を認めているのです、イエス様に冷たくした十字架を認める人はイエス様を愛していないのです、イエス様には愛があるけど自分には愛が無い、わたしがあなた方を愛したように互いに愛し合いなさい、イエス様が弟子を愛したように互いに愛し合いなさい、その前にイエス様に冷たいのです、自分が救われるためにイエス様が犠牲になったと信じるならば、それはイエス様を愛していないのです、イエス様と共に生きるという気持ちが無いのです、お互いに愛しなさいとはお互いに生きなさい、どちらかが死んでどちらかが生き残るのはサバイバル宗教です、お互いに生きる宗教がお互いに愛し合うとなるのです、いけにえでは誰も幸せになれないのです、旧約聖書では誰も幸せになれないので、メシアを待望しているのです、そのメシアを冷たくしたのがキリスト教です、キリスト教は愛の教えでは無く相手を殺して生き残る教えなのです、だから戦争は終わらないのです、愛の教えだと伝えながら実は人を殺しているのです、イエス様は愛だと言いながら愛する人を殺しているのです、悪魔の正体ははじめから人殺しです。