聖書を理解する 18号 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

●疑問点➡神様は全能であるのに救われない

●考察➡聖書では神様は天と地も人も創造されました、人が神様の言葉に従わずに罪を犯して楽園を追放されました、人は罪を犯したために死ぬという定めになりました、しかし人が死んだのでは「かわいそう」だから復活という「恵み」が与えられました、メシアであるイエス様を信じると復活するという恵みです、祝福でもあります、ところが多くの人は神様の祝福も恵みも知らないので、本気で信じることが出来ません、イエス様の名やクリスマスのことは知っていますし、イエス様が処女マリヤから産まれたことなども知識としては知っている人は多いです、知識で知っているのと、本当に信じているかどうかは別の問題ですから、信じていない人には問題として死ぬという定めは続くことになります、聖書の神様は全能神ですから、死ぬ人をどうにでも出来るかと思うのですが、聖書的にはイエス様を信じない者の運命は厳しく悲惨です、逆にイエス様を最後まで信じると天国に住めるという約束が与えられています、聖書は神様の約束の書として意味がありますので、軽く扱うことは出来ません、ただし聖書に書いてあるから正しいとはなりません、聖書はイエス様を信じる者は救われるという原則です、パウロを信じる者は救われると言う内容ではありません、聖書にはウソを語り人を惑わす悪魔的な人がたくさん登場しますので、よくよく警戒しなさいとなっています、全能の神様ではありますが、人に選択権を与えていることは確かに感じます、どちらを選ぶか人に選ばせるように神様がしているという意味です、善悪の知恵の実を食べるかどうか、パウロの福音を信じるかどうかも大きな選択です、何しろ誠とウソを置くのが神様のやり方です、神様に絶対服従ではありません、奴隷とは違います、自分で選べるので神様の奴隷になっていることにはなりません、自分で神様の言葉を信じるかどうかを決めることが出来て、結果は祝福か呪いです、たとえば交通事故で死んだ場合ですが、イエス様を信じないで死ぬ人とイエス様を信じて死ぬ人がいます、どちらも死ぬのは同じですが、イエス様を信じて交通事故で死んだ場合は天国に行くことになります、イエス様を信じたから交通事故に遭わないということではありません、天国には事故は無いかも知れませんが、この世では事故や戦争もあります、この世は天国では無く、汚れた世界なのでいろいろ起きるのは避けられません、イエス様でも殺された世界なのです、イエス様でもこの世に来ると拒否されて苦しみに遭う世界なのです、神様は全能ですがこの世を清く聖なる世界にはしていません、今の時代でも悪魔的な人が支配者になって人々を支配しているのです、きれいごとは通用しません、つらい立場にあってもイエス様を信じて耐え忍ぶことが自分の修行となります、不平や不満があってもどうにもなりません、時代の流れに勝てないのです、死なない選択をするしかありません、何が起きてもイエス様を信じることが死なない選択です、イエス様は十字架に磔(はりつけ)にされても天の父を信じたと言う「人類の身代わりの型」があります、罪人が助かるための「型」です、身代わりに型を示してくれたとい言えるのです、罪の身代わりではなく永遠に死なないために身代わりに型を示してくれたとなります、イエス様と同じように出来るかどうかは分かりませんが、最後まで神様を信じて生きる、死ぬまで神様を信じて死ぬ、生きるも死ぬも神様を信じる、イエス様が身代わりに示した型となります、これ以外に救いは無いとなります、裏切って死んでも救いは無いとなります、取り返すことは出来ません、後悔しても無理かも知れません、イエス様を信じなかったという事実(選択)は自分の人生に刻まれます。