聖書を理解する 14号 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

●疑問点➡人を裁いてはいけない

●考察➡アダムとエバの時代から人は人を裁いています、ここが理解出来ないと裁きの世界から抜け出すことは出来ません、悪い癖を直したければ原点に帰らないと直すのは難しいです、アダムとエバが善悪の知恵の実を食べてから「隠れた」のは罪の意識を持ったからです、罪の意識の無い人は隠れることはしません、今の時代でも犯罪を犯している人は警察官を見ると隠れるらしいです、警察から逃げ回っているのが基本的に犯人です、アダムとエバは楽園で罪を犯して隠れてしまった、自分がいけないことをしたと「分かった」のです、同時に他人が悪い事をしたのも分かったので、悪魔やエバの「せい」にして責任を転換するようになりました、自分が悪いことをしたのは自分が原因ではないと「裁く癖」が身についたのです、小さな子供でも同じような行動をします、自分は悪くない兄弟が悪いのだと親に訴えたりします、アダムの場合は神様が与えたエバが食べろと言ったから食べたと、神様も悪いように主張しています、人類の裁き合いはやはりアダムとエバからスタートしています、もし自分が楽になりたければ他人を裁かないことです、人を裁いてはいけないとは聖書の大きな原則なのです、人を裁かないようにするには努力しても無理ですからイエス様に裁きを任せる、ゆだねるということです、今の時代では裁判を裁判所に頼むという制度になります、自分で勝手に他人を裁いてはいけないのです、裁判の結果では負けてくやしい思いをしますが、それでは裁判所を信じていないことになります、聖書の構造ではイエス様の裁きは絶対である、絶対の信頼を置いてくださいとなっています、ここに信仰のポイントがあります、イエス様信仰をして楽になるのは、イエス様を信じるからです、イエス様を愛しただけでは楽にならないのです、イエス様の決めることを絶対に信じるという信仰がその人を楽にするのです、聖書の構造は人の罪からのスタートですから結末はイエス様の最後の審判です、人の審判ではありません、すべての人がイエス様に審判を任せた時は裁き合いは無くなりますが、今の時代は裁判の時代です、勝った負けたの勝負の世界です、自分で戦って自分で死んで行く時代です、どんな立派な業績を残しても死んでしまいます、むなしいはかない無常の世界です、努力して勝利しても本当の勝利ではありません、また次の戦いが起こるのです、戦争に終わりはありません、世界の戦争はイエス様が裁いて終わるのです、イエス様の審判に間違いはない、イエス様を信頼してイエス様に任せる、誠の裁判官にゆだねることです、ですから聖書の結論では他人のやっていることは、そのままにしておきなさいとなっています、特に裁きの近い今の時代はイエス様を絶対に信頼して何もかもイエス様に任せる、ゆだねることです、もちろん自分の行き先である天国地獄もイエス様を信じて任せる、御子を信じる者は救われるだけです。