イエス様と生きる 2024年04月15日 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

東京には板橋という地名があります、その橋は写真の橋です、板橋という橋は板の橋です、イエス様という名前は救いという名の神様です、イエス様の名前を信じた者は救われるのです、板橋という橋を信じて渡るとあちらに行けます、渡る途中で橋が壊れると思ったら渡れません、イエス様が自分の罪を背負って十字架で死んでくれたと信じても救われません、イエス様の名は救いですから十字架では救いません、イエス様の名前は十字架ではありません、十字架を拝んでも救われないのです、キリスト教会では十字架を拝んでイエス様を拝んでいないのです

日月神示 夏の巻

与えられたもの、そのものを喜ぶようにすれば楽に行けるように暮し向きも楽し楽しで暮せるようになっているのです、あり余る程与えてあるではありませんか、生かして使ってください、なぜ生活にあくせくするのですか、与えてあるものを殺すから自分も死の苦しみをするのです、有限でなければモノは顕われないのです、モノに顕わすと有限となるのです、すべてに感謝してください、総てのものに、それ相当の意義があるのです、全体的には喜ばなければなりません、愛をもって接しなければなりません、信仰をおかなければなりません、だからと申して局部局部においては、それぞれ、その時に応じて処理しなければなりません、ただしその場合はゆとりをもって処理してください、綱を長くしておかなければなりません、・が喜びです、また・の・はムでもあるのです、内から外に向って行くのが⦿のやり方、外から内に向って行くのが、外国(幽界)のやり方です、〇から・に行くのは誠が逆ですから、誠のことは分からないのです、外から行く宗教や哲学や科学が元を分からなくしているのです、元が分からなければ生きのイノチが分かるはずはないのです、今の世は逆様です、先祖から正してください、原因から正して行かなければならないのです、⦿から出て・にかえり、無限より出て有限に形して、有限から無限にかえり、また有限に動くのが誠のやり方です、誠の理解者には甘露の水なのです、人間は神と共に自分自身で生長して行かなければなりません、人間から見れば全智全能の神があるのです、このことをよく分かってください、誠の理解と迷信とが別れる大切なことです、何神様とハッキリ目標つけて拝んでください、ただぼんやり神様と言っただけではなりません、大神は一柱ではありますが、現われの神は無限であるのです、根本の大日月大神様と念じ、その時その所に応じて、特に何々の神様とお願い申してください、信じ合うものがあれば、病気もまた楽しく、貧苦もまた楽しいのです、例外と申すものはないのです、他の世界、他の天体、他の小宇宙からの影響によって起る事象が例外と見えるのです、心大きく目を開いてください、「なりなる」と申してあるでしょう、なると申すのは内分は同じで、形の変ることです、ウムとナルとは同じであって同じではないのです、本当にモノを見、聞き、味わい、消化して行かなければなりません、地の上にあるもの、人間のすること、その総ては霊界で同じことになっているのです、先づ霊の世界の動きが大切です、霊の食物、霊の生活を求める人民は少ないです、それでは片輪車でいつまでたってもトンテントンテンなのです、そのものを見てそのものに接して下肚がグッと力こもって来るものは良いもの、本物であるのです、キは総てのものに流れ込むものです、信仰は理智的にも求められるのです、完き情であるのです、真理を理解するのが早道であり確信となるのです、神も人間も同じです、同じではあるが違うのです、それは大神の中に神を生み、神の中に人民を生んだためです、自分の中に新しく自分を生むときは、自分と同じカタのものを生むのです、大神弥栄えなれば、神も弥栄え、神が弥栄えなれば人民弥栄えなのです、困るとか苦しいとか貧しいとか悲しいとかという事はないのです、理(ミチ)を踏めと申すのは、生みの親と同じ生き方、同じ心になれと申すことです、人民がいくら頑張っても神の外には出られないのです、神がいくら頑張っても大神の外には出られないのです、見えるものから来る幸福には限りがあるが、見えないものから来る幸福は無限です、尽きない喜びは常に神からです、ウムと申すことは自分をよりよく生長させること、一つ生めば自分は一段と上に昇るのです、この道理は分かるでしょう、産むことによって、自分が平面から立体になるのです、毎日一生懸命に掃除していても、どこかにホコリが残るものです、まして掃除しない心にホコリが積もっていること位は誰にでも分かるでしょう、神示で掃除してください、大病にかかると借金してでも名医にかかるのに、霊的大病は知らん顔でよいのですか、信仰を得て霊的に病気を治すのは、一瞬には治らないのです、奇跡的に治るとみるのは間違い、迷信です、時間もかかり手数もかかるのです、物も金もかかるのです、大きな努力がいるのです、取り違いが多いのです、過去も未来も中今(ナカイマ)です、神も人間と同じで、弥栄えして行くのです、悪い癖は直さなければいつ何時まで経っても自分に迫って来るものは変わらないのです、お陰が無いと不足申しているのですが、悪い癖、悪い内分を変えなければ百年祈り続けてもお陰は無いのです、理屈なしに子は親を信じるのです、その心で神に対してください、神が親となるのです、目と口から出るもの、目の光りと声とは、実在界にも実力を持っているのです、力は体験を通して出るのです、カタは形を持たなければなりません、念は語ることによって現われるのです、・が無(む)なればなる程〇は有となるのです、このことは良く分かってください、肚の中のゴモクを捨てると良く分かるのです、キが元と申してあるのです、人民は総てのもののキを頂いて成長しているのです、キを頂いてください、横には社会のキを、縦には神の気を頂き、悪いキを吐き出してください、よい気を養ってください、気を見分ける鏡を与えてあるではないですか、道が分からないなら人に聞くでしょう、分からないのに分かった顔をして歩き廻ってはならないのです、人に聞いてください、これと信ずる人に聞いてください、天地に聞いてください、神示に聞いてくださいウとムは相互いに相反するのですが、これが一つになって動くのです、ウム組み組みてと申してあるでしょう、今の人民の知恵では中々解けないのです、ウの中心はム、ムの廻りはウです、中心は無限、周辺は有限であること知ってください、上に立つ人ほど働かねばならないのです、働いても力は減らないのです、働くにはキを頂かねばならないのです、キから力が生まれるのです、働くと申しても動くばかりではないのです、動かないことも働き、動くのも働きですから良く心得てください、よせては返しよせては返し生きているのです、始めの始めと始めが違うのです、後になるほど良くなるのです、終りの中に始めがあるのです、祈り、考え、働きの三つが揃わなければなりません、生めば生むほど自分が新しくなり成り、大きくなるのです、人間は大神の渦の御子ですから親の持っている、新しき古きものがそのままカタとして現われ出て、弥栄えている道理です、人間の総てに迫り来るもの総てが喜びとなるように努力してください、物を喜ばせれば物は自分の喜びとなって自分となるのです、心の世界は無限に拡がり生長するのです、神に融け入って宇宙大に拡がるのです、神と共に大きくなればなるほど喜びが大きくなるのです、一神説いて多神説かないのもカタワ多神説いて一神説かないのもカタワです、一神則多神則汎神であるという事実を説いて聞かせてください、人民は神の入れものであると申してあるでしょう、神の・と人間の・と通じて居ればこそ呼吸するのです、・と・と通じて居ればそれで良いのです、神の・と人民の・と通じて居るならば、神の〇と人民の〇と同じようにしておかなければならないと申すのは、人間の誤りやすい、いつも間違いを起す元なのです、神の〇と人間の〇と同じようにしておくと思って、三千年の誤りとなったのです、・と・と結んでおけば後は自由です、人民には人民の自由があるのです、神のやり方と自ら違うところがあっても良いのです、天の理と人の理とは同じであって違うと心得えてください、神の姿は総てのものに現われているのです、道端の白い花にも現われているのです、ぞれを一度に、すべてを見せて飲み込ませてくれと申しても分からないのです、分かるところから気長に神を求めてください、すべては神から流れ出ているのですから、神にお願いして実行しなければならないのです、この分かり切った道理を疎かにしているのです、そこに天狗出ているのです、自分が自分を生むのです、陰と陽とに別れて更に別れると見るのは、人間の住む次元に引き下げての見方であるのです、陰陽に別れるのでないこと、元の元の元の誠の弥栄えを知ってください、その人その人によって、食べ物や食べ方が少しづつ違うのです、身体に合わないものを食べても何もならないのです、かえって毒となるのです、薬が毒となることもあるのです、ただ歩き廻っているだけではならないのです、しっかりと目標をつくって良い道を進んでください、飛行機があるのに馬に乗って行かないでください、先ず額に気を集めて肚でものごとを処理しなければなりません、形ある世界では形の信仰もあるのです、偶像崇拝であると一方的に裁いては誠は分からないのです、人民の知の中に現われて来る時には、もはや大神ではないのです、神であるのです、原因の原因は中々見当とれないのです、始めは形あるものを対象として拝むのも良いですが、行き詰まるのは目に見える世界のみに囚われているからです、タテのつながりを見ないからです、死んでも自分は生きているのです、大我に帰ったり、理法に融け入ったりして自分と言うものが無くなるのではないのです、霊界と霊と現界と現身(うつしみ)とのことはくどく説いてあるでしょう、神示を読んで読んで大往生の理(みち)が弥栄えに体得出来るのです、霊と体と同じであると申しても人間の世界では別々なのです、内と外、上と下であるのです、取り違いしないようにしてください、造り主と造られるものは無限に離れて行くのです、和は無いのです、和の無い所に天国は無いのです、こんな分かり切ったことがなぜに分からないのですか、尻の毛まで抜かれていると申してあるでしょう、早く目を覚ましてください、悪の道、教えにまだ迷っているのですから早く目覚めないと間に合わないのです、無限のものと有限のもの、ムとウを混ぜこぜにして考えるから人民の頭は兎角ウになりがちなのです。欲を浄化してください、すべて世の中の出来事はそれ相当に意義があるのです、意義の無いものは存在が許されないのです、人間心で、邪と見たり悪と感じて、狭い低い立場でいるから、いつまでたってもどうどうめぐりなのです、それを毒とするか薬とするかは各々の立場によって考え方や、処理方法や、いろいろの運び方によって知るのですから、心しなければならないのです、今に一生懸命になってください、二十二のように知らせるのです、神の仕組みは間違いなし、どしどしと運んでください