イエス様と生きる 2024年04月14日 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

救い主を必要とするかどうかは自分で決めることになります、自分が罪人であればあるほど助けてもらいたいものです、自分ではどうしようもないから助けて欲しいのです、罪悪感を自分で無くすことは出来ません、自分の十字架を自分で背負うということは罪悪感はあるということです、罪悪感を背負いながらイエス様に「付き従う」というのがイエス様の教えです、罪悪感の無い人は救われようとする気持ちが無いので、救い主との縁は無くなります、ですから救われない世界で頑張ることになります、自分は罪深い者で罪悪感があり、救いを必要としていることがポイントになります、救い主イエス・キリストとなります、イエス様以外に救いの神様はいないのです、唯一の救い主なのです

日月神示 春の巻③

天には天の道、地には地の道、人民には人民の道があると申しているのです、同じ道ですが違うのです、天の道を地にうつし人民にうつす時は地の約束、人民の約束に従うのです、約束は神でも破れないのです、次元が違うのですから違って来るのです、違うのが真実なのです、それを同じに説いたのが悪の教えです、同じだと思うのが悪の考え方です、上から来るものは光となって流れて来るのです、光には本来影はないのですが、動くから影がうまれるのです、それを影でない影と申すのです、悪でない悪があると申してあるでしょう、天には天の自由、地には地の自由、神には神の自由、人民には人民の自由、動物には動物の自由、それぞれの自由あるのです、その性の高さ、清さ、大きさなどによってそれぞれの制限された自由があるのです、自由があればこそ動くのです、自由とは弥栄えのことです、光は神から人民に与えられているのです、光に向かうから照らされるのです、光は・、真、善、美、愛となり、またその裏の〇、疑、悪、醜、憎となり現われるのです、御用の善となり、御用の悪となるのです、悪を憎むのは外道の善、外道とは上からの光が一度人民界にうつり、人民界の自由の範囲に於ける凸凹にうつり、それが再び霊界にうつるのです、それが幽界と申してあるものです、その幽界から更に人民界にうつったものが外道の善となり、外道の悪となるのです、善にも外道があるのです、心得てください、光は天のみでなく、地からも人民からも、すべての生命あるものから出ているのですが、その喜びの度に正比例しているものですから、小さい生命からの光は分からないのです、戦(いくさ)は善にもあり、悪にもあり、右には右の、左には左の、上には上の、下には下の、中には中の、外には外の戦があるのです、新しき御代が到来しても戦は無くならないのです、戦も歩みで弥栄です、だからと申して今のような外道の戦ではないのです、人殺しや生命を殺すような戦は外道です、やればやるほど激しくなるのです、正道の戦は人を生かす戦、やればやるほど進むのです、今の人民は戦と言えば、人の殺し合いだと早合点するのですが、それは外道の戦です、天国への戦もあるのです、幽界への戦もあるのです、人民の申す今の戦、今の武器は人を殺す外道の道です、それではならないのです、外道の戦はなくしてください、外道はないのですから、外道を抱き参らせて正道に引き入れてください、新しい霊界は神人(カミヒト)共でつくり出されるのです、それは大いなる喜びであるからです、神のみ旨であるからです、新しき世は明けているのです、夜が明ければ闇は無くなるのです、新しきカタはこの中からです、日本からです、日本が良くならなければ世界は良くならないのです、外道の武器を捨ててください、外道の武器を生かして活かして生命を生かす弥栄えの武器としてください、変えられるではありませんか、与え、与え、与えてください、与える政治と申してあるでしょう、戦争か平和かと人民は申しているのですが、道はその二つではないのです、三が道だとくどく申してあるでしょう、水の外道の武器と火の外道の武器の他に新しい武器に気づかないのですか、神示を良く読めば示してあるのです、他に道は無いと決めてかかるから分からないのです、生れ赤児になれば分かるのです、知らせてやりたいのですが知らせて分かるのでは自分のものとならないのです、自分が体得し自分から湧き出なければ自分のものでないのです、つけ焼刃はとても危ないのです、気狂いに刃物です、平面的考え、平面生活から立体に入ってくださいと申してあるでしょう、神人共に融け合うことです、外道でない善と悪と融け合うのです、善のみでは善ならず、悪のみでも悪ならず、外道は夜明けが来れば消えてしまうのです、夜明けの御用は大切だと申してあるでしょう、外道の悪は殺さないでください、抱き参らすから消えるのです、念を入れ替えるのです、念入れ替えるとは新しき霊界をつくることです、新しき霊界をつくるとは太神の真中に融け入ることです、一時は人民無くなるところまで行くのです、人民は無くなっても人民は無くならないのです、洗濯して掃除して新しき道を早く進んでください、遅くなるほど難しく苦しくなるのです、近目で見るから分からないのです、日本の世界明けたり、とても爽々(すがすが)しい日本晴れです、二二(フジ)は晴れたりとは真理の世に出ることです、天のことを地にうつす時は地の力が出るように地の息吹きが通うように弥栄えするように、念を地の力と現われるように正しくうつしてください、邪気が入ってはならないのです、今の武器は幽界の裏打ちがあるのです、神界の裏打ちのある武器でなくてはならないのです、誠の武器です、ビックリであるのです、念からつくり出してください、その念の元をつくれば神から力を与えるのでこの世の力と現われるのです、念の凸凹から出た幽界を抱き参らさなければならないのです、中々御苦労なことですが幽界を神界の一部に、力にまで引き寄せなければならないのです、念が新しき武器であるのです、それでは人民はまわりくどいと申すでしょうがものごとには順と時があるのです、元のキから改めてください、尊き御役なのです、念であると今の人民の言う思想は誠の念ではないのです、思想は思想です、念とは力あるものです、実在であるのです、喜びであるのです、喜びは神です、弥栄えです、これぞと思う人がいたらその理(ミチ)の人に従ってください、一寸先も見えな人民ですから先達の後についてください、それが一番良いことです、人を見出すことは難しいです、十年、二十年行じても目標が違っていたら何にもならないのです、この方の道に来てください、正しい光の道を歩いてください、十日で一月で見違える程になるのです、死んだ気で神示(ふで)をそなたの身にうつしてください、涙を流し、汗を流し、血を流してください、天災や地変は大きな肉体の応急処置の現われであるのです、部分的に人間を苦しめる様に思ってはならないのです、一日一度は便所へ行かなければならないのです、人間はこの世の五十年を元にして考えるから分からなくなるのです、永遠弥栄えの生命を早く体得するのが結構なのです、その人によってふさわしい行があるのです、誰でも同じではないのです、一合食べる人もいれば一升食べる人もいるのです、身につかない行をいくらしても何もならないのです、要らない苦労は要らないと申してあるでしょう、風呂には時々入るが、魂の風呂に行く人は少ないのです、より高い聖所に参って魂の垢を落としてください、神示を読んで垢を落してください、垢を落さないで神の光が見えないと申したり、お陰が無いと我よしなことを申しているのですが、風呂に入らないで垢がつくのは怪しからんと申すのと同じではないですか、何故に分からないのですか、全体の為に奉仕するのは良いのですが、自分を捨てて全体は無く、自分は無いのです、全体を生かし、全体と共に部分の自分が弥栄えるのです、早合点は禁物です、人民の因縁や性来はみな神示に書かせてあるのです、そなたのことは何もかも一目なのです、因縁が分かってうれしうれしで御用するのが結構です、うれしおそろしとなる仕組みなのです、誠の光の道を行い進んでください、ここぞと見極めたなら理解に向ってひたすらに進まなければなりません、理屈は要らないのです、宇宙はこの方の中にあるのです、この方です、世が段々と迫って来て悪くなるように申していますが、それは局部的なことです、大局から見れば良い方向に向って弥栄えているのです、夏が暑いと申してブツブツ申さないでください、やがて秋になり、冬もあるのです、冬ばかりと考えないでください、やがては春が訪れるのです、いづれも嬉し嬉しとなる仕組みなのです、どうしたらよいか、神の言うことを聞くから助けてくださいと申す者が沢山出て来るのですが、神は何も難しいことは申さないのです、現在を足場として一歩づつ進めばよいのです、それでは食って行けないと申す者もいますが、神はあり余るほど与えてあるのです、何故手を出さないのですか、与えたもののみが自分のものです、今の人民は余っても足りないと考えてむさぼっているのです、幸福を与えてあるに何故手を出さないのですか、曲げて受け取るのですか、心の目を開いてください、ゴモクを投げ出してください、我の強い守護神さん、もう我の世は終わったのです、我を出すほど苦しくなるのです、見える幸福には限りがあり、見えない幸福は永遠なのです、理(みち)にいそしんでください、理に融け入ってください、物は無くなり霊は永遠に弥栄えるのです、毎日毎日掃除しても埃はたまるのです、絶えず心の掃除洗濯をしてください、目に見えない、上下、左右、前後から何となく迫って来るものをサニワしてください、サニワして受け入れなければなりません、自分の魂を育み、生長させてくれる大切なものは目に見えない所から流れて来るのです、和して調和してください、調和とは、より清い上から流れて来るものに従うことです、いよいよが一四一四となるのです、雨の神、風の神、地震の神、岩の神、荒の神、大地震の神です、十二年遅れているのを取り戻すのですから、これからは目の廻るほど急しくなって来るのです、神示を読む暇も無くなると申してある時が来たのです、いずれは人民は減るのですが、何も約束ごとですから真理とは替えることは出来ないのです、誠を求めるなら、これと見届けたならば、その場で御用を与える仕組みです、行く水にも雲にも咲く花にも神のみ心があるのです、見る目が無いから分からないのです、掃除すれば分かるのです、掃除は結構なことです、拝むことは拝まないよりはましなのです、しかし拝んでばかりでは病気は治らないし金は儲からないのです、拝むばかりで金儲け出来たり病気が治ったりすると思うのは間違いなのです、理(みち)にいそしんでください、理(みち)行くところに喜びがあるのです、喜びがあるから病気も治るのです、金も出て来るのです、お陰があるのです、喜びは神です、タテには神と神界と和し、横には人と環境と大和して行くところにこそ生きの生命のうれしうれしがあるのです、後にも先にも無い見せしめが出て来るのです、メグリがひどい所ほどひどい見せしめがあるのです、神が誠の心を見抜いたらどんな手柄でも立てさせるのです、自分でもびっくりです、誠の人ほどお陰は遅いのです、遅いほど大きなお陰があるのです、同じ筋のミタマは沢山あるのです、類魂と申しているものです、いくら因縁があっても曇りがひどいと、類魂の中から次々に代りのミタマを使う仕組みなのです、とやかく言わないで素直について来てください、早く心の洗濯をしてオオヒツキ太神様に、特に育ての生みの親様、クニトコタチの大神様の御実体を理解しなければ自分でいくら頑張ってもやり損なうのです、我が我がと思っているのですが皆この方が影からさせているのに気づかないのですか、お詫びしてくださいと申すと、そんな悪いことをした覚えはないと申すのですが、何処までも曇ったものです、神に捧げるには自分に与えられたものの中から捧げなければならないのです、むさぼり取ったり横取りしたり、自分のものでないものや儲けたカスを神に捧げて威張っていますが、それでは捧げものにならないのです、神は受け取らないのです、泥棒のお残りちょうだいは真平です、先ず自分のものを捧げるから弥栄えるのです、お陰万倍間違いないです、一足飛びには行かないのです、一歩々々と申してあるでしょう、一度に神様を知りたいと申してもそうは行かないのです、一年生からです、出直し出直しです、子供に大学のことは分からないのです、十貫の荷物は背負えないのが道理です、進むにはそれ相当の苦労と努力が要るのです、あぐらをかいて、懐手していては出来ないのです、時も金も汗も血も涙も要るのです、良いもの程値が高いのです、今を元として自分を元として善である悪であると申してはならないのです、良い人民が苦しみ、悪い人民が楽して、神も仏も無いのだと申していますが、それは人民の近目です、一方的な見方です、長い目で見てくださいと申してあるでしょう、永遠の理(ことわり)をわきまえてください、支払い窓口は金をくれる所で預け口は金を取る所です、同じ銀行でも部分的には、逆さまのことをしているのです、全体と永遠を見なければものごとは分からないのです、良く心得てください、一九三九〇(ヒクミチコト)、一九三九〇(ヒクミチコト)、一九三(ヒクミチ)、四九三(ジクミチ)、四九三(ジクミチ)