1日目(2025/02/23(日)) その6

武豊→半田


おはようございますパーキョロキョロ


昨日はこちらでも雪が降りました。その前の日は気温が20度を優に超えていたのでこの温度差で体を維持するのは厳しいですねショボーン 雪は本日も降る見込みです。


この間の週末がやはり南伊豆の桜が見頃だったようですが、あそこまで行く元気は残っていませんでした爆笑 


↓前回のお話はこちら


前回は戸塚ヨットスクールを中心とした美浜町の話をしました。


まず本題に入る前に、最近話題になった2つの話をあげます。

いずれもみなさんが小学4年生の教科書で習ったことがあると思われる新美南吉の「ごんぎつね」の最後のシーンの内容です。「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは。」という言葉が特に有名で色々なことに使われてます爆笑


1つ目です。

話の内容からして最後のシーンでのごんぎつね(以下ごん)と兵十の気持ちを答えなさいという問題のようです。投稿者は兵十の気持ちとして「ああ、うたなければもっとくりをもらえたのかなぁ」と書いたのですがこの時の先生に「こういうふうに思うのかな?もう一度ごんぎつねを読んでください。先生は、ちょっとがっかりです」と赤字で指摘されてしまったという内容です。

確かに兵十としてはうなぎを取られたことが母親が食べられずに死んだ原因であるので、そのかたきとしてごんを撃ったわけですが、これまで栗や松茸が届けられていたのはごんのおかげだと悟って、撃ってしまったことを後悔しているというシーンです。ですのでそれよりも物欲が勝るのかというサイコパス的な感想と捉えられかねません。

教科書からは割愛されていますが、南吉の草稿には、
「権狐は、ぐったりなったまま、うれしくなりました」
という記述がありました。つまり、認めてもらったというよりは求愛的な読み方もできるんですよね。ワイには縁のない話ですが、プロポーズとかでストレートに言わず、相手に対して「もっと〜を食べたい」とか物量的なことで言うこともあるんですよね爆笑 だから投稿者が書いた内容もまんざら間違っているようには感じません爆笑 それに「先生は、ちょっとがっかりです」という書き方はカチンときましたムキー ワイにも心当たりがありますからねショボーン

2つ目です。

ある意味ゲームやファンタジーに慣れた子どもだからかもしれませんね。


青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。


最後の文章ですが、これは(ごんの)命が潰えていく状況を婉曲しているように見えますが、小学4年生では判断は難しいし、「死んだ」とか「冷たくなっていた」など具体的に死を表現した文言がないので、「ごんは生きている!」と解釈してしまいかねません。


これら2つの例を読解力不足で片付けるのは、なんか違う気がするんですよねショボーン 



遠征記録なのに前置きで長々と「ごんぎつね」の話を上げたのは、この日これに関係があるところを訪問したからです爆笑 なんか狙ったかのタイミングでごんぎつねネタが連発したんですよね爆笑


それが、新美南吉記念館爆笑


上記「ごんぎつね」や「手袋を買いに」などを書いた新美南吉は知多半島の半田出身だったのです。「ごんぎつね」もこの辺りを舞台に描かれています。話に出てくる中山という地名は、記念館の横にある童話の森がまさにその場所となるんです。


園内にはキツネの像がこのようにたくさんあります爆笑 というか駐車場がいっぱいでギリギリ入れました。


記念館は220円です。アンケートを求められました。半田市内に泊まりますかとか半田市内の店で食事されますかなどの質問もありましたが、どちらも「はい」と答えるしかないですね爆笑


新美南吉の像ですかね。


新美南吉(本名: 新美正八 1913〜1943)は半田で生まれ、旧制半田中学校(現: 半田高校)を卒業後、東京外国語学校(現: 東京外国語大学)へ進学・卒業後、半田に戻り英語の教員を主に行いながら執筆活動を行っていました。「ごんぎつね」は半田中学校時代、18歳の時に書かれたものでした。結核のために29歳の若さでこの世を去ってしまいましたが、多くの人に読まれる作品を残しました。


ごんぎつねの一シーンです。彼岸花も教科書の巻頭に載るほどのアイデンティティで、記念館の北側に彼岸花の群生地があるようです。季節が違うので確認できませんでしたが爆笑


このイラストは見覚えがある方が多いと思いますニコニコ



このような模型もあります。


絵本の表紙。


こちらにも南吉の像が。南吉はイケメンでしたね爆笑
事実多くの女性と恋愛があったのですが、結局どれも結ばれることはありませんでしたショボーン 本日の最初にごんぎつねの最後でごんが最期にうれしくなったという草稿だったという話をしましたが、南吉本人の当時の思いがあったのかもしれませんねニコニコ

南吉が東京で生活していたところのイメージ爆笑


細かいですが右側のところに「ごんぎつね」の教科書での採用状況一覧がありますが、近年は全ての教科書会社が発行した年はすべて掲載されています。

見どころは他にもあったかもしれませんが、すでにワイが疲弊していたので今回はこれでいいと、記念館をあとにしました爆笑




記念館から車で5分ほどのところにある、南吉の生家。南吉の親は畳屋を営んでいたようです。




左側は下駄屋ですが、南吉の母親は南吉が4歳の時に亡くなり、そのあと父親の後妻となった女性が営んでいたようです。

隣が畳屋だったようです。

ピンボケしていますが地下ではなく傾斜地に建てられたためニ層になっているようです。

別棟のトイレまで整備して残してあります爆笑

もともとこの生家は他者に渡っていましたが後に半田市が購入、復元したのです。

このあともう一箇所見て宿に向かいます。先ほど書いたように完全に疲弊していますが爆笑


今回はここまで。


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