Minahei -28ページ目

Minahei

ライター戸塚美奈のブログです。

夕べはつらくてニュースを観られなかった。なんで引退? 気の毒でかわいそうでたまらなかった。私は元サッカー母ちゃん、スポーツでがんばっているすべての男子がみんな息子に見えるのだ。モンゴルからやってきて、日本語を学び、あれだけの実績を上げ、いったいこれまでどれだけのことを犠牲にして相撲にかけ、努力をしてきたことだろう。それが、こんなことですべてを奪われてしまう。

昨日からツイッターなどで見ていると、「どんなときにも暴力はいけない!」というご意見がたくさん流れていた。でも、今回のことはそういう問題? 私だって相手に腹がたったらかっとして、手元のリモコンで殴るくらいするかもしれない。それで結果的に頭が割れることだってあるかもしれない。貴ノ岩の頭の写真だけが出ていたけど、なぜ貴乃花親方も貴ノ岩も出てこないまま、「暴力はいけない!」でまるで犯罪者のように一方的に日馬富士が責められなければならないのかまったく釈然としない。貴乃花は毅然と相撲界に立ち向かって、暴力を振るったり、星の回し合いをしたりすることに抗議した、という人たちがいるけれど、こんなやり方をして、結果的に、日馬富士だけでなく、貴ノ岩だって不幸になっている。貴乃花親方は、言いたいことがあるなら最初から記者会見でもなんでもやって言えばいい。どう考えたって、やり方がおかしい。

一度の過ちを、「暴力はいけない!」という正しい人たちが集中砲火して糾弾し、きちんとした双方の対話がないまま引退させられた。ものすごく怖いことが起こっていると思う。

 

 

インフル薬で異常行動?通知へ | 2017/11/23(木) - Yahoo!ニュース https://news.yahoo.co.jp/pickup/6262195 @YahooNewsTopics

インフルエンザの治療薬を飲んだ子どもなどが「異常行動」を起こす報告があとを絶たないことを受け、厚生労働省が近く「部屋に鍵をかける」といった具体的な対策を呼びかける方針を決めたことがわかりました。

↑昨日の朝日新聞の記事によれば、昨シーズン、インフルエンザ治療薬を使った患者の異常行動は未成年者を中心に54件報告されており、うち、リレンザとイナビルを使った10代の2人がマンションから転落するなどして死亡しているとのこと。因果関係はわかっていない、とのこと。

部屋に鍵をかけて閉じ込めるとか、見張っていろとかじゃなくて、薬を飲ませなければいい話である。世の中には薬が好きな人もおり、そういう人たちがインフルエンザのによってもせんもうなどが起こると絶賛キャンペーン中だ。私は、次男が赤んぼのときにリレンザ飲んだときの異常さを目の当たりにしているので、とてもそれが「熱せんもう」とは思えない。あの一晩の悪夢といったら、ほとんどエクソシストであったよ。

インフルエンザ治療薬とはいうけれど、インフルエンザウイルスを殺す薬ではないし、治療効果は「?」というシロモノ。すでにタミフルは、WHOにも必要のない薬として格下げされてしまっている。しかも、濫用することで耐性ウイルスがどんどんできる。逆に、ほんとうに危険があって治療薬に頼るしかない救急の患者に使えなくなってしまう。

昔はインフルエンザかもしれないな、と言う場合には、解熱剤やら抗生物質やら、咳止めやらなにやらいっぱい処方していたものが、今は検査薬でインフルエンザと判明したらインフルエンザ治療薬しか処方できなくなってしまった。だから安易に処方されるのもわかるけど、それほど効果のないことや、副作用のキケンもあるということを説明した上で、どうしても必要という人だけに処方すべきなものではないだろうかと思う。

 

長年一緒に本を作っている母里啓子先生の本、『もうワクチンはやめなさい』の

改訂版、11月初旬に出しました。

今『ワクチン副作用の恐怖』で話題の近藤誠先生との対談もあります。

偶然同じタイミングで出ました。(配本日1日違い)まったく偶然。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

庭の、ナナメにかしいじゃってるきゅうりのつるがおおいに気になっているのだが、今チラと見たら、おくらの木(もはや木のように)によりかかり、ウリみたいなのが一本実っている。今夜のおかずは、きゅうりの炒め物にするしかあるまい。

 

土井義晴さんの『一汁一菜でよいという提案』はとてもいい本だった。評判を聞いて気になりながら避けていたが、本やで見たら、きちんと文がいっぱい書いてあるちゃんとした本ではないか! (暮らしスタイルの本ってスカスカの本が多い)。読んでみたら、なかなかこれが手ごたえのある内容。食のジャンルにとどまらず、マザー・テレサが、世界平和のためには何ができますか、と聞かれた人に、「まず、家に帰って家族を愛しなさい」と言ったエピソードや、数学者岡潔の「生存競争とは‶無明"でしかない」という言葉など、さまざまな引用も心に迫るものばかり。たくさんの本を読んでものを考えてこられた方なのだと初めて知った。

 

「・・・大きな大きな問題を、日常の小さな小さなことで解決できるなんて思っていません。・・・・・ただ、食事の根源的な意味を考えようとしているのです。一人ひとりすべての人の命を作るものだからです。そして、その最低限のことをおこなうことが、一人ひとりの幸福のための行動だと信じるのです。」(『一汁一菜でよいという提案』土井義晴 グラフィック社)

 

料理の意味とはなんだろう、と思っていたことの答えを、ずいぶんこの本から見つけた。日本人が長年食べて来た、ご飯やみそが大事であることなど、やっぱりそうだよね、と確認することがいっぱいあった。

ああくたびれたなぁ、という夜にこの本を読んで、さあ、明日もおご飯をたいてお味噌汁を作って、と思って寝る。最近はそんな毎日。

 

みそ汁にご飯でいいんだ、と気持ちもさっぱりしたものの、家族は納得してくれるのか。母親が一汁一菜でよいと家族に提案しても認められんよねぇ。いや、案外、家族はそれでいいのかもしれない、好きなおかずなくても納豆か卵でいつも食べるし、とか思いつつ、まだまだ悟りにはほど遠いのであった。

 

 

 

昨日の午前中少し本の整理をして、そしてあんなブログを書いておきながら、もう今朝になって、新聞の記事に反応して以前読んだ本が気になり始め、段ボールから本を取り出すこと2回。

だめだ、こりゃ。

洋服や雑貨の類は処分しても思い出すこともないのに、本はこれだ。でも、片づけや断捨離というのは、結局は、その人にとって一番大切なものはなにかを見出す作業なのだと思うから、こうした逡巡は私にとって大事なものが何かを思い知らせてくれるよいこと、必要な気の迷い、なのだと思うことにする。

 

シルビィ・ギエムのインタビューを見つけたので読んでいたら、25年前からすべてのトウシューズを保管していて、引退した後に何をするかというと、まずはそれを燃やすことから始まると思う、ということを言っていた。シルビィ・ギエムは100年に1人と言われたダンサー。ヌレエフに指名されて最年少でエトワールとなり、その後ロイヤルバレエに移籍し、クラシックからコンテンポラリーまですべてをこなし、50歳で引退。白鳥の湖のような大作の全幕物では一足はきつぶすというし、常にある程度履きこんだシューズを舞台のために用意しておかなければならないという。するといったい、どんだけの量のシューズをスタンバイさせておかないといけないかというと、想像するだけでたいへんなものである。ギエムのビデオでは、指ぬきをしてトウシューズの手入れをするシーンや、大量のシューズをひろげて次々にミシンをかけるシーンが観られる。そんなふうにしていちいち自ら手をかけて履きやすくしていたシューズが、いったいどれほど保管されていたのだろう。

 

そう考えると、ギエムのシューズのような価値あるものと比べるのもちゃんちゃらおかしいが、私にとっては本や資料などの紙クズも、ま、バレリーナにとってのトウシューズのような、捨てられない物、なのだ。いつかわからないけど、自分のために役立ってくれるもの。自分だけに使われるために待っているもの。付箋を貼ったり書き込みをしたり。おいそれと捨てられるものではない。そう考えると、ためこんでいたサッカー記事を捨てられたのは、サッカー母ちゃん引退して、もうサッカーは書かないなぁと自分の中でふんぎりがついたからだったのかもしれないなぁと今わかった。

 

北林谷栄さんは、おばあちゃん女優として活躍された役者さんだが、芝居に使う衣装は自前で、あちこち自ら歩き回って集めたものだったのだそうだ。自著『蓮以子八〇歳』に「生活の苦汁を着る」という見事な文章がある。デパートの食品売り場で試食を繰り返すおばあさんの「イカス上っぱり」に目をつけ、なんとかゆずってもらおうと近づく話、かかしの着ているジュバンがほしくて、たんぼの持ち主を捜した話などのエピソードが描かれる。そうして苦労して取り集めた「愛憎のボロ」を、夏の土用ともなれば庭木に細引きを張り渡して虫干しし、大切に手入れ。有名な『ビルマの竪琴』での物売りばあさんや、『キクとイサム』などのばっちゃの名演技をささえた衣装である。「こうして取り集めた大切なこれらの衣装も、私がいなくなればただのボロとして、むすこは捨ててしまうだろう。」誰か、志を同じくする人に、これらを譲りたい、そうエッセイにはある。今、それらの「愛蔵のボロ」はどうしているのだろう。民藝の方たちに譲られていたらどんなにいいだろう、と思うが、文章を書きながら、北林さんは、誰かに譲りたい気持ちはあるけれど、他の誰かに譲ったところで、それらの物が自分が使ったのと同じように活かされることはあるまいとわかってしまっている。「いま、このところを書いていたら突然に涙がこぼれた。私の愛蔵のボロとは、つまりそういう性質のものなのである。」北林さんはエッセイをこう結ぶ。この文章を読み返すたびに、私もいつも涙が出そうになる。

 

ギエムも、トウシューズを大切な人に少し譲ったとあったが、ギエムのトウシューズだって、ギエム以外の人は絶対に使えないものだ。北林谷栄さんの衣装だって、ほかの人が着ても同じ演技はできない。重ね重ねそれといっしょにするな!と言われるとわかってますが、私にとってだって、本やボロの紙切れは大事な、私にとってのみ、かけがえのないものなのだ。

誰にだって、そういうものはある。「引退」や「卒業」でそれらを処分するときだってある。でも、その区切りがつくまでは、「愛蔵のボロ」どもを、自分なりに手入れしながら、大切にしていくしかない。できるだけ自分仕様にして、使い込んで、自分が死んだときに「なんだ、こんなボロ」と捨ててもらえるようにしておこう。断捨離できなくたって、それでいいじゃないか。

 

 

 

 

「捨て期」がやってきた。

多くは、この毎日のへんてこな気候のせいだと思う、たぶん。

それと、自分の力ではどうにもならないことがあって、イライラしてくると、私の場合、やたら物を捨てたくなる。

高校生のときに読んでいた雑誌に載っていた読み切り漫画。失恋した女の子が、ヤケになり、「全部、全部、捨ててやるー!!!」とアパートで、彼との思い出のものをすべてゴミ袋に詰め込む。ガランとした部屋の中で酒を飲んでいると、隣のお調子者がやってきてチャカポコそこに加わる。小腹がすいてラーメンを作る隣人。「あれ、ドンブリがないぞ」「捨てちゃったのよぉ~」。

どんな話だったのか皆目覚えいないのだけど、そのシーンだけはハッキリ覚えていて、「そうか、何かツライことがあっても、物を捨てて気持ちにケリをつけてしまえばいいんだナ」となぜか若い私は学んだのだった。

失恋で「捨てる」快感に目覚めることはよくあるようで、「捨て変態」ことゆるりまいさんの漫画「わたしのウチには、なんにもない。」でも、きっかけは失恋。泣きながらやっとのことで思い出の品々を処分し、悲しいことなのに「気持ち良い」ことに気づいてしまう、そのくだりがおもしろい。

自分の力ではどうにもならないこと。それの代表的なものが、若いムスメにとっての失恋、なんだろうね。オバサンにとっては、まぁいろいろ。片づける、捨てるにしても、家族の物を勝手に捨てるわけにはいかないから、自分のものを徹底して捨てるか、家のものを少しずつ気づかれないよう捨てるしかない。

 

今日の午前中は少しだけ本を整理。本や資料のコピーだけは、仕事に使うかもしれないと思うとなかなか捨てられない。それでも、図書館で借りられそうな本はどんどん手放す。「この部分だけいる」という本は、切り取ったり写真をとっておいたりして、あとはゴミとして出す。ときめきのお片づけのこんまりさんは、本、いるところ切り取ったりしても絶対に読まないから全捨てしなさい、と言っていたけど、私は本から切り取ったページってけっこう読むし、大事にするんです・・・。で、暗記するほどになったり、ただの紙切れのようになってから、ようやく捨てたりする。

古本屋に売ろうと思って段ボールに入れていた20巻くらいある漫画セット2作品分、ダンナが、「まだオレ読んでないから捨てないで」というので結局本棚に戻し。もー、いつまでたっても読まないくせに。

山のようにあったサッカーの資料、(サッカー選手の少年時代や育成についての記事のキリヌキ)、3カ月ほど前にカンシャクを起こして全部捨てた。捨てたら困るかもしれないなぁ、と思ったけど、あれは捨てて大丈夫だった。そういう資料のたぐいも山のようにあるし、どうしても捨てられない資料は写真にとって(スキャンして)データにして残そう!と決めているのだけれど、それもなかなか手間がかかるんだわ。

料理の本は、必要なところを切り取ってファイルして全部捨て!と決心したものの、作業はこれから。 

というわけで、見た目としてはあまり減らず……。スッキリ、には程遠い我が本棚。地震のたびにこれ押さえるの、なんかもういやだなぁ。

 

ゆるりまいさんの漫画に、「3千冊以上の本をもっていたけど、ある日突然ふっきれて処分」、って書いてあった。どうしてふっきれたのかなぁ。