すべてをさらけ出す介護 『こんな夜更けにバナナかよ』 | Minahei

Minahei

ライター戸塚美奈のブログです。

 

本が刊行されたのが2003年、その後講談社ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞とダブル受賞して話題になり、その後2018年には大泉洋主演で映画化もされている。それなのに、今まで読んでいなかった。2003年当時には障害者のノンフィクションにはまったく関心がなかった。映画化のころにはまた話題になったはずだけれど、何せこのタイトル・・・内容をかなり誤解していた。やっとのことでたどりついた。(『マイホーム山谷』に、この本のことが書かれていたから読めた)

 筋ジストロフィーで手足の不自由な鹿野さんを支えるたくさんのボランティアたちとのかかわりが書かれる。懸命に生きる障害者と献身的なボランティア・・・という話ではまったくもってない。鹿野さんはできうる限りのわがままを言うたいへんな障害者である。病院を飛び出し在宅を貫く。集められたボランティアたちは面くらいながらも彼を受け入れ、そして時に拒絶し。すがすがしいほどの裸のやり取りが展開される。

 

正直言うと日頃私は、夫の介助をしながら、「やってもらってるんだから、もう少し謙虚になれないものだろうか」とぐちぐち思っていたが、そんな思いが吹っ飛んでしまうほど、鹿野さんはすごかった。

夜中にお腹がすいて突然「バナナ食べたい」。プレゼントが気に入らない、取り替えてきてと言う。アダルトビデオを借りてきてもらう。「たばこがすいたい」と吸わせてもらう。「ダメ!!」とやめさせようとするボランティアもいる。飛び交う火花。それがまたおもしろい。

ボランティアたちの陰で、印象的なのが、鹿野さんのお母さんの存在。鹿野さんの妹も重度障害者だからということもあり(なんということだろう)、鹿野さんは母親に介護をさせない。それでもお母さんは、ボランティアたちに料理を作ったり、鹿野さんのわがままの度が過ぎないように「首根っこを押さえたり」する。そんなお母さんのことを、大学生のボランティアたちは心から慕っている。

 

大学生ボランティアのひとり、斉藤さんがすごくよかった。斉藤さんはボランティア自体に過剰に意味を持たせない。性格の奥とかそういうことをあれこれ深読みしすぎない。表面に出ている部分を見ればいい、と。彼は、鹿野さんが不眠症で蕩々と話し続ける横で、「適当に流して」聞いている。「その土俵に引きずり込まれることなく、自分のスタンスで向き合う」

ことをする。いいかげんそうでいて、じつはそうとうな我慢強さのいることだ。

本の最後、鹿野さんが亡くなったあと、教員になった斉藤さんを訪ねたときの近況、最後の言葉がまたいいのだ。

「さらけ出そうっていうのが、すごいあるんですよ。もう年々、そういうのが強くなってきてね。自分をさらけ出そうと――。もう理屈はいらねえなあと。理屈はあとから着いてくるから。だから、いま目の前にあることを、泥くさくてもいいからちゃんとやろうと。オレはただそれだけでやってるような男だから」

 

介護されるほうだけでなく、介護するほうも、自分のすべてをさらけ出していく――。

なにかここに、「ケア」というものの本質がかくれていそうな気がした。

 

映画版で主演した大泉洋さんが、この映画に出ることで、考え方が変わった、と言っていた(というのを夫にきいた)。今までは、人に迷惑をかけちゃいけない、と思って子どもにもそう言っていたけれど、

「困ったときは、どんどん人の世話になったり、迷惑をかけたりして助けてもらえ。逆に自分ができるときは人を助けなさい」と言うようになった、と。

 

著者が佳作なのが残念。間をおかず続編ももっとがんがん書いてほしかった。この本はもっともっと読まれるべき本だと思う。

 

『こんな夜更けにバナナかよ』渡辺一史著 文春文庫