フジテレビ:視聴率低迷、どうした? - 毎日新聞

攻めから守りに転じた時に負けるのは世の常だ。囲碁でもタイトル戦で、勝勢を意識して守りに転じて温い手を打ち逆転負けを期すなど枚挙に暇がない。

ポッとでの新人なら良くある経験のひとつで片づけられそうだが、これが百戦錬磨のタイトル戦も経験した9段とか、絶頂期にある棋士でもそうなのだから、なかなか勝負というものは難しいのだろう。手を緩めるという発想はAIにはないと思われる。しかしAIにはAIならではの敗着があるかも知れないし、なんとも言えない。

ゴルフでも数十センチのパットを決めれば優勝という所で外すことがある。The Open の世界ですらそうなる。これは慢心ではあるまいが、勝利のすぐ近くには最期の落とし穴があるようだ。

だが堅実さ、安全さを優先するのは自然な考えであろう。東京-大阪間を移動するなら新幹線か飛行機がこの一手であって、北陸周りの新幹線とか、東海道線在来線の旅は余程のもの好きでなければ考えにくい。

だが、堅実な手、確実な手の中には魔物が住んでいるのも事実である。当然ながら、勝負手、必死に攻勢しようとする手にも魔物が住んでいる。

ところがこの魔物はまるで違う顔を見せる。結果に対しての印象は全く違う。

負けるかも知れない所から攻めた勝負手ならば、負けても善戦である。勝っている所からの守って負けるのは惜しいでは済まされない。なぜそう打ったかについて悶々と悩むに違いない。

  • 優勢で攻める
  • 優勢で守る
  • 敗勢で攻める
  • 敗勢で守る


しかしながらどれにも勝ちパターンがあるのである。

ゴルフでもショートしたのはすぐに忘れる。しかし、オーバーしたのは、強く怪訝の念が払拭できない。なぜそう感じるかは良く分からない。それでも考えてみると、恐らく脳は効率化を貴ぶのではないか。

効率化を最上位の価値に置けば、足りないのは足せば目的地に届く。しかしオーバーしたら後戻りしなければならない。強すぎることによる失敗は、足りないよりも無駄なエネルギーを浪費した分だけ、懺悔が2倍になるはずだ。つまり足りないのは、失敗しただけであるが、オーバーしたのであれば、失敗に無駄なエネルギーの浪費というペナルティが加わるわけだ。

もちろん人間の知恵は、急がば回れ、道草には意味がある、過ぎたるは猶及ばざるが如し、などと人間の脳のそういった自然さを戒める。必ずしもそうではないよと。

だが、それでも一度でも頂点に立った人間が、もう下に降りてゆくことは難しいのはないか。天使でさえ自発的に下りれば堕天使と呼ばれる。地上に堕ちた天使は大体が神様の罰と決まっている。

フジテレビの社長が自ら「剛腕が傲慢」と訴えるが、映像で見る限りフジテレビの社長からは、もう傲慢さ、慢心さが滲み出ている。本人がいくら否定しようが、実際そんなつもりがなくても、長い間に染み込んだ臭いというのはどうしようもないらしい。

反省すべきは、過去ではない。失敗は幾ら振り返っても構わない。そこにも発見や後悔が見つかるだろう。だが、過去に縛られて居る状態から抜け出すのに役に立つかは疑問だ。

過去と対峙しなければ過去と決別できぬかも知れぬが、過去と向き合うだけで抜け出するかは微妙だ。過去の悪い点を改めれば人は変われるものだろうかという結論が得られる。

昔、ウェイン・レイニーという GP500 ライダーがいた。彼は先頭に立っても速かった。それを称して解説者が、彼の走りは首位にあってもだれかを追いかけているようだ。きっと自分の理想的な走りが常に彼の目の前を走っているのでしょう、と言っていたのを覚えている。

戦っているものは、常に緩まない。相手の息の根を止めるまで。勝利が見えた瞬間に勝負を放棄するかの如きは、勝負に鈍感なのだろうか。それともそれ以外の何かが潜在するのだろうか。緩んで負けることほど悔やまれるものはないだろうに。

だから、当人には緩んだ気がない可能性が高い。それなのに、周りからは緩んでいると言われる。この乖離は原因が分からないだけに辛いだろう。弁明したいことは幾らでもある。しかし、そうではないんだ。そう思っている間は、おそらく勝てぬ。

自覚のないものに気付くのは難しい。実際と自分の中にある谷にどうやって橋を掛ければよいか。

フジテレビは戦っているつもりでいる。しかし実際は戦っていない。波に乗ろうともがいているサーファーみたいなものだ。波があれば、自分の波と合わない時もある。何も変わっていなくても波長が合えば増幅するし、悪ければ打ち消す。

そういう時は、色々変えてみるしかないわけだ。変えたからと言って修正できるとは限らない。だが、時間が自然に解決する事もある。

関西テレビのダレトクは結構面白い。地上波の中でも攻めている方だ。それが楽しくて観るのだが、それでも、どうもスタッフたちの臭さが感じられる。

頂点に立てば自負や矜持を持ってしまう。これは頂点に立たなければ得られないものでもある。故に、それが嫌味に感じられる場合がある。それを嫉妬と呼んでも差し支えない。だが優越感を、必ず劣等感は見抜く。

表に滲み出るような魅力というのは、実は自然では難しいのかも知れない。それを作り上げるものだと、たしか江戸時代に人が言っていたように思う。それを修身と呼んでいたのではないか。

ちなみに江戸時代の罪と罰 - 剣客商売の時代が面白かった。

一人一人を見ればフジテレビのスタッフも優秀だろうし、慢心していないだろうし、ぎりぎりの所で攻めようと、日々なにか面白いことはないか、面白さとは何だろうと考えているに違いない。

だが少し考えて欲しい。テレビ局の業務とは視聴率を取ることだろうか、テレビ局の顧客とはテレビの前の視聴者たちだろうか?それは違うだろう。

テレビ局の業務とは広告を流すこと、顧客とは広告主のことである。彼らに気に入れられたくてテレビ局は面白いコンテンツを探している。所が、今のフジテレビの広告手法は、広告主には喜ばれるだろうが、視聴者の許容を超えている。たった5秒の映像を見るために2分も広告を見せられるのである。

自分たちのコンテンツには人生の2分をドブに捨てるように消費してでも待っておくだけの価値があると思っているのだろうか。本当にそんな価値があるのか?新垣結衣とベットの中にいるのとは訳が違うのである。

それに気付いていない点が、恐ろしい。彼らが幾ら反省してもやっていることをみれば、全く違う場所にいるのは明白だ。幾ら振り返っても答えが見つかるわけないじゃん。彼らの所作を丁寧に見てゆけば、見ている場所が全く違うように感じられる。

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ライダー感ある オカモト、コンドーム専用ウェアラブルデバイス「ゼロワンベルト」開発 - ねとらぼ

当然の事だけど、これを開発した人たちが「射出」の後に「装着!」と叫んで、仮面ライダーが武具を纏うように装着される、そこまで考えていないはずがない。

「装着!」の後のかっこいい決めポーズだって幾つも試したに違いない。

しかし、我々の21世紀の技術をもってしても、装着をうまく実現する機構は見つけられなかった。多くの実験体が、挟まれ、傷つき、血を流した、もしくは、破れていったのである。

基本的にはするすると伸ばすところが難しい。所詮は1mmにも満たない薄さである。力加減とそれを固定するところに技術的な北センチネル島である。

それでも、あと数年もすれば、装着ベルトが完成すると思う。そのヒントは口でやってくれあれである。あの動作を Magnetic Resonance Imaging で撮りまくって研究を重ねるのだ。

ここで得られた技術革新は、介護ロボットなどに応用は数知れず、新しいブレークスルーの始まりである。

近い将来、「博士、ついにやりましたよ。」「ああ、見事な装着だ!」という感動的なシーンがどこかの研究所に訪れるはずである。

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テレビ大阪の”世間にあふれる、わざわざ言わなくてもいいことを言う”トークバラエティー「わざわざ言うテレビ」(関西地区)に矢口がゲスト出演した。

以下、その発言
  • ベッキーちゃんの記事が出た時に、私の名前も再浮上した
  • 芸能人だから、たたかれてしまうのはしょうがないこと。一般の方たちの間で同じようなことがあっても、絶対に当人同士の間で解決されることじゃないですか
  • 真実なんて絶対に本人しか知らないから、周りがとやかく言うのはおかしいって思う
  • 女性がたたかれるイメージもありますね
  • 女性側が浮気することを)意外だと思うからではないですか? でも、私は世の中の女性はけっこう浮気していると思います
  • 女子は隠すのがうまいんです。私の場合はバレたんですが…


これ、関西ローカルやから、矢口も言えたんやと思う。もし、東京でも同じ発言をしたら、あっという間に全国に飛び火や。とてもじゃないけど、冗談では済まんくなるに決まっておる。

つまりや、関西にはこれくらいでも冗談で済ます文化があるっちゅことや。この関西の強さみたいもんがな。逆に言えば、関西じゃ、この程度の発言でも本音とは認められんっちゅこっちゃ。

東京ではね、やはり体面、世間体、面子が重視されるのだと思います。それを汚したり、汚すような真似を東京は許さない。だから、反省していない素振りを東京は嫌うんです。東京はね、謝罪よりも反省を求める所なんです。

東京という所ではね、本音がどうであってもね、それは深く聞かない。人それぞれだと考えているから。だから、何を思ってもあなたの勝手、みたいな所はある。だけど、他人に迷惑をかけるようなことは嫌うと思いますね。そこの所に、何かみっともないとか、恥ずかしいという文化があるんじゃないかな。

ほいでも、大阪でも体面は大切や、ただ東京と大阪では体面とか面子ちゅうもんは違う気がしますな。大阪じゃ、この矢口の発言は本音を言っとるように見えて、実はまだまだや。この程度の発言じゃ本音とはいえん。つまり、まだ体面を保っとるやろと関西では見ておりますのや。

そりゃ、東京やろうと、大阪やろと、本音は何?と掘ってみりゃ、そりゃどちらも深い闇でっっしゃろ。

それに対して、互いのスタンスの違いいうのがあるみたいやな。その根本にあるのはなんでっしゃろ。

東京というのはたぶん異邦人の街だと思います。だからお互いの本音を聞かせてくれなくてもいい。それを尊重する。だから、対人との間にあるものは守って欲しいと思っているんじゃないか。お互いの距離を考える。何を思うのもあなたの勝手だが、行動する時には、マナーや礼儀を守るべきであるという考え。つまりコミュニティにおける振る舞いをとても重視するんだと思う。

関西では、異邦人という感じはしまへんな。それよりも気心の街や。あんたが深い闇を抱えておってもわてらは構いまへん、だけど、深い闇だけやったら気味が悪い。それだけじゃ困るっちゅうもんや。だから、周りにおるものを少し笑わせてみてや。それだけうちらは気心が知れるちゅう、そんな土地柄や。

東京と大阪でさえ、すごく違っていると思うんだ。他の地域まで入れれば。。。

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囲碁は世界中に普及しているし、強い人はどこにでもいる。

普及と言う意味では、欧州もプロ化が始まっているし、日本のプロに勝つ人も出現しているから、遠からず世界戦が開かれることになるだろう。

それでも、プロの中で強い人は韓国、中国、日本を中心に活動している。マイケルレドモンド9段はアメリカの人だけれど、活躍の場は日本にある。

だから、メルエムが打った囲碁将棋のチャンピオンは、日本では少し強いアマチュア程度だろうと思うのである。

さて、欧州王者がどれくらい強いのかと言えば、よく分からない。強いアマチュアよりは強いのは間違いないが、抜群に強いアマチュアより若干強いくらいか。

もちろん、勝負の世界ではプロだから強いとは言えない。いろいろな生き方の人がいるから絶対ではないが、強い人はたいていプロである。

ただプロでも初段や2段と、いせどる9段との差は、おそらく、神様を100としたときの2と5くらい(対数かな?)には違うと思う。

この差は下手をすると誰かの一生を掛けても縮めることは出来ないかも知れない。しかし、AIならばいつかは追い付く。それは間違いないように思える。

勝負は時の運だし、人間はよく感情や油断で調子が変わるので、負ける可能性はある。勝負する以上、必ずある。それでも、いせどる九段が負けるのならこの先に人間の勝ち目はほぼないだろう。

プロ二段に5連勝したのは強いに違いない。棋譜を見たプロ棋士によれば、現状では負けはないだろうが、これからの三ヶ月でどれくらい伸びるかが分からない。それ次第では負けもありうるとみている。

今はアマ本因坊と同じでも三ヶ月後にはプロ九段と同じくらいになっている。コンピュータならばそれも不可能ではないという見方は間違っていない。本当にそうか、と聞かれても、そうかも知れないし、違うかも知れない。

未来を語れるのは、道筋を決め、想定される困難を知った上で、スケジュールを立てた者だけだろう。それでもスケジュールの遅延など日常茶飯事である。

そうでなく未来を語るのならば、たまたまなのだ。当たった事を凄いと言うのは100面体のサイコロの目を当てたのを凄いというのと変わらない。それを凄いと見做す知性ではAIには及ばないだろう。

コンピュータに囲碁をさせるには、基本的に次の3つの技術を使うそうである。
  1. 探索
  2. モンテカルロ法
  3. ディープラーニング

探索。
理想を言えば取りうる石の配置を全て探索して、その中から結果が一番良いものを(評価関数の戻り値から)選べばよい。ところがマシンパワーは有限であり、ありうる数と比べると圧倒的に非力である。それは例えるなら、70億の人間のうち一番背の高い人を探そうとするときに、二人だけの背を測って高い方を世界一と認定するようなものだ。

これはコンピュータのパワーが上がることで次第に解決されるのだが、まだ有望なほどの速度はコンピュータにはない。そこでそうではない方法論が必要とされるのである。ただし読む数が少なくなる終盤ではヨセはかなり(絶対?)正確であるらしい。

モンテカルロ法の導入。
モンテカルロ法がひとつのブレークスルーとなった。この手法によりプロ棋士(本気とまでは言えない)に4子で対抗できるようになった。詳しくは知らないが、イメージとしては過去の棋譜を読み込ませて、今と同じ(類似した)状況で、次にどのような手を打てば勝率が上がるかを検索する。その中から良さそうな手を選ぶ(らしい)。

ディープランニングという革新。
Google の革新はこれにディープランニングという手法を組み込んだ事だ。これがどういう方法かと言えば、人間のニューロンをモデルとした学習方法らしい。

もうさっぱりであるが、学習というものは、必ず時間軸上に並べたデータを順番に扱うことで行うものである。そのデータを配置して、繰り返し経路に流す。流れる数が多い経路が有望と見做す。ここに回数だけではなく、強い印象なども加味して上書きしてゆく。

早い話が、多くの動物が通るところには、自然と獣道ができるのと同じだ。そこに獣道があるということは、そこを選択する理由となる。

全然イメージは湧かないが、どういう構造でデータを蓄積するのか、どうやってデータを取り込み、それを学習できる形に成型し、処理するのか。それでもこれまでの個人ベースの開発から世界でもっとも豊富な資源をもつ企業が投入した装置であるから、アルゴリズムだけではなく物量的な勝利でもあるに違いない。

Google Alpha Go はこれまで人間と対抗してきた Crazy Stone、Dolbaram と闘っても勝利したそうである。500戦中499勝だそうである。しかしマシンパワーもカスタマイズもよくわからないので、なんとも評価しきれない。

囲碁も追い付かれるか、と思う気持ちはある。それがいつかは来る日とは思っても、ここ数年のうちとは思わなかった。だが、そういう感想はいせどる9段との闘いが終わるまで保留しておくべきだろう。

いつかは敗れるのは間違いない。その途中でAIが負けても不具合を改修すれば必ず強くなる。しかし負けた人間が修行してきてもどうも勝てる気はしない。AIはハードウェアもソフトウェアもアップデートできるが人間は固定されている。勝つためには遺伝的に進化するしかないかも知れない。

だが囲碁は所詮はゲームである。ここがAIの終点ではない。では囲碁に勝利したAIは次に何をターゲットとすべきか。

僕はそれを法律だとみる。AIに法律をダウンロードし、あらゆる判例を教え込む。そのうえでAIに司法制度に参加させるべきだ。裁判官をAIで置き換えるのだ。

そうした世界がどうなるのか、人間よりも遥かに公平であるAIが、その公平さを保つためにはどういう知識を与え続けなければならないか。そういう事を考察するのに適した社会的実験と思う。

囲碁で驚いている場合ではないのである。三権分立の一翼をAIが担う世界がすぐそばまで来ていると思うわけである。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1949886894&owner_id=6393203
言論の自由は当然ながら権力に対する市民の当然の権利である。よって権力はそれを犯してはならないのであって、それを逆に言うなら、権力はその権利を任意の時点で踏みにじることが可能である。

技術の発展によって、市民革命と言うものは既に不可能になりつつある。くわだのすきだのをもって政府を打ち倒すなど、フランス革命やアメリカの独立くらいまでである。

既に市民革命など殆ど不可能であるし、それを可能にするには軍部が動かざるを得ない。日本では江戸時代から市民革命など不可能でせいぜいが一揆ていどである。

近代社会に生きる人間はだれもが革命権を持つ。しかし、この権利の難しさは、それが革命権の行使であるのか、それとも単なる国家転覆であるのかは、その途中には確定しない。成功すれば革命権の行使であるし、失敗すれば、それは権利の行使とは認められない。

近代国家は市民の権利を踏みにじることは許されていない。許されないことを規定するのが憲法である。それを踏みにじるならば、統治機構としての正当性を失う。当然であるが、正当性を失った所で政府が倒れるとは限らないのである。

さて、権力とは通常は国家権力である。そのため、出版社などは自由を守られる側にあり、その限りにおいては政府に対して何を主張しようが勝手である。言論の自由を政府は犯すことができない。

ところがベッキーは政府ではないから、何を言われようが出版社の言論の自由とは限らない。それところか、この場合、権力の側は出版社と規定することも可能である。

もし出版社が権力の側であるならば、それは権力と市民の対抗という側面を生じる。強力な体制を持つ出版社に対して、弱い市民の側にはこれと対抗する手段が必要なはずである。

この辺りについて、フランスのテロリストたちは、体と火薬を使った直接的対話を試みたのはご存知の通りである。

ではそれ以外にどういう対抗手段があるのだろうか。つまり、言論は常に言論と言えないのではないか。もし言論が暴力と同等を認められたならば、それを抑止する刑事的、民事的対抗手段は必要なはずである。

出版社や新聞社が人権を蹂躙したのは枚挙にいとまがない。例えばサリン事件の最初の容疑者への扱いは到底容認できるものではない。

その行為に対して出版社が取ったことは単なる謝罪であろう。果たしてそれで許されるのであろうか。とてもそれはフェアとは言えまい。罪に対して罰が等しくないのではないか。

ベッキーがこの記事に対して対抗しようとするならば、現状では民事で文春を追及するしかない。その方法論としてどういう法律が使えるかは知らない。だが、出版社を倒産に追い込むくらいの民事訴訟を起こすべきケースもあるように思われる(この件とは言わない)。

当然ながら文春も不倫如きで言論の自由を主張する気などあるまい。彼らに社会的正義があるとは言えず、せいぜいが不倫の不道徳性を追求したいだけであろう。

しかしその他の記事を見る限り不倫を本気でこの世界から撤廃させたいと考えているわけではない。ISほどの強烈さで主張していないのは明らかだ。

すると今の文春はどういう理由でこういう記事を流しているかと言えば、当然ながらそれは正義でなく、売り上げの問題である。

この記事においては出版社とタレントではフェアな対立にならない。明らかに多勢に無勢であり、状況証拠は極めて不利である。だが、これじゃ一方的なリンチである。

リンチと報道の差はどこにあるのか。言論と暴力の間に明確な線引きができない以上、それを明確に咎めることはできない。しかし、だからと言って言論だからリンチではないとは言えない。

フランスが第二次世界大戦に勝利したとき、フランスの男たちは、多くの女性の髪を切ったものである。この男たちの恥ずべき行為は映像に記録され今も残っている。自分たちは戦争に負けておきながら、銃を手に死にもしなかった男たちが懸命に生き抜いた女をなぶる。

その瞬間は正義だと思ったであろう。そういう正義はある。だが、それが明日も正義とは限らない。

一方で芸能人とはプライバシーを切り売りする商売であるから、これら一連の情報を流出させたのが当人であっても驚きはしない。もともと勘の鋭い人たちは、彼女についてイメージとは違う何かを嗅ぎとっていたようである。基本的に逞しい人に見える。

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はて、中国の狙いは何かと考える。

ひとつに先の大戦の日本の敗北は貴重な教訓であって、それと同じ状況を再現できれば、日本は自発的に勝手に倒れてくれるだろう。このシナリオは基本戦略のひとつとして掲げていると思う。

かつての日本は明治維新の早い時期からロシアがやばいという事に気が付いていた。それが明治維新の原動力となり40年かけての準備が日露戦争の勝利に結実した。だが、この勝利をもってしてもロシアの脅威を完全に払拭できたわけではなかった。それがその後の日本の動向を決定したのであるし、この点は注目に値する。

時に兵器が大発展している時代であり日進月歩の軍隊は、数年で旧式どころか、まるで役に立たなくなるような状況にあった。そのような時代において日本陸海軍の実力は、装備と物量の前で、日露戦争前よりも優位になったとは言えない状況であった。日本はジリ貧に向かっていたのである。

その危機感が(史実としての正確性は知らないが)結局は満州国の成立を生み出すのであろうし、日中戦争の泥沼もその流れの先にある。橋頭保を国外に持ちたいという戦略が日本の基本だったわけである。

しかし、ここで更に注目しなければならないのはこれらロシアの脅威に対して、あくまで日本は単独で対抗しようとしていた点だろう。この単独という方法が、結局は日本の孤立化を深める。

ヨーロッパやアメリカは、札束で頬を打ち付けてでも自分たちの仲間を作るというものであるが、日本にはそういう戦略はなかった。孤立化のなかで、もっとも小さく遠い場所にいる集団と手を結ぶのである。

その外交戦略を壮大な挟撃作戦と呼んでも差支えないが、それは成功していればの話であって、現在から顧みれば、夢見すぎだろう。これをもっと追及するなら、当時の日本は地球の反対側に行くまで、どことも友好国になれなかったという事である。

中国大陸に介して言えば、世界中の列強が狙っていたのは明らかであって、アメリカと手を携えて進出すれば良かったのである。そう思うが、実際はアメリカを排除して進出する。

そりゃアメリカが非協力的になるのは当然の帰結であって、アメリカは中国から撤退しろと主張していたのではなかろう。その利権をおれにもよこせ。できれば7割くらい。なもんである。

日本にとってロシアの脅威が完全に払拭されるのは、敗戦後にアメリカと同盟を組み、冷戦の勢いでソビエトが亡国した時である。

その歴史を見ても単独で抗うには無理があったことは間違いない。そうであるなら、戦前からロシアの進撃に対抗するために、欧米列強を中国に招き入れ、そこで仲良く橋頭保を確立すればよかったのではないか。

もちろん、こういった歴史のifはその後の未来像が描き切れるものではない。if の先に何が待っているかなど誰にも分らないものである。日本は地図から消えているとしても不思議はない。

しかし、どうも日本は外交下手で友好国を作りにくい性質があるらしい。これは中国からすれば使えるのである。そのためなら、ロシアの脅威の変わりを中国自身が担う。

恐怖によって日本を孤立化できたとして、その先にあるものは、結局のところ、沖縄の米軍が邪魔なのであろう。これを追い出すためにはどうすればよいか、が思案のしどころだ。

それには様々な手段を講じることになる。日米同盟にひびを入れる、沖縄の民意を煽る、アメリカに撤退したいと思わせる、アメリカの経済力を失墜させる、台湾を併合し、沖縄駐留の意味をアメリカから失わせるなどなど、考えられる戦術は幾らでもありそうなものである。

もちろん日本としても沖縄県民が争っている間は楽観できるのであって、彼らの主張が一枚岩になる方がよっぽど大変である。行ったり来たりを繰り返しているならば、それは振動として安定しているわけで、その間に時間を稼ぐことが望ましい。

いずれは地政学的、技術的、戦略的転換が、沖縄の基地を無用のものとするであろうから。それが可能となる条件を推察するのもまた面白い話だろうが、それはここでの話ではない。

中国としては、中米同盟さえ検討したかも知れない。だがその問題点はそれを必要とする対抗勢力が宇宙人侵攻でもない限りないので、夢物語チックな点だ。

いずれにせよ、中国という驚異に対して、日本人がヒステリーを起こすことこそ中国はウェルカムであり、そこを狙って行動しているのは間違いない。それが極まって、より切迫した時に、躊躇するアメリカに対して、日本が強権的になる状況を作り出したいのである。それが孤立化の早道であろう。

そのためには、アメリカとの同盟はもはや不要という所まで日本の軍備を整備増強させるのが良い。仮に加藤友三郎のビッグ7や米ソの軍拡競争のようなチキンレース的な装いを見せたとしても、片や国家予算の大部分を福祉に使う日本と、現在はまだ貧乏、貧困、それは豚の餌にかえ、と言える中国では、明らかに中国に有利な状況である。

という妄想を逞しくするなら日本の政府はよくやっている。だから問題は世論であるし、中国も日本政府がこれでどうこうなるとは思っていないだろう。彼らの狙いはただ一点、政府が無視できないくらいに世論が炎上する事である。その一点を煽り続けて、中国が損をすることはない。

と考えてゆけば、我々は国際社会で孤立化することの恐怖をもっと知るべきであるが、では、我々は建国以来、どのような同盟を組んできたかと言えば、ほとんどないに等しい。

まるで AKB のハピネスこと佐々木優佳里くらいに友達がいない。唯一の一応の友達がアメリカだけってのが偽らざる状況ではあるまいか。

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多くの人間というのは、事実には興味がない。真実とはこうやって作り上げられるものである。そこに疑惑がある限り、たとえ疑惑を払拭しても、ベッキーのイメージが元に戻ることはないのである。

ベッキーという善人は死にました。

ドラマでいえば、それまで善であり、天使と思われていた主人公であるベッキーが、第23話最終回で、行きなり、天使の羽がぽとりと落ちて、背中が割れて、そこから蝙蝠の羽がじゃかーんって飛び出た塩梅である。

わーお。と振り向いたベッキーの目は紫色に光っているって感じ。画面には To Be Continued.

第一幕、Season 1 はこうして終わったのです。

もうこれ、Season 2 は絶対に見るでしょ、見ないわけないよね。って思ったりする。Previously On Becky で始まるドラマ見たくない?見たい見たい!!

思うに、不倫で叩かれる人はたくさんいるけれど、声に出せないだけで不倫で苦しんでいる人も実はたくさんいて、そういう人はひっそりと見守っていたり、応援していたりしているんじゃないかな。

これはベッキーが本当に不倫しているとか、不倫を推奨しているとかって話ではなくて、あいつは人間の屑だって話でもなくて、もうそういう状況で上塗りされたイメージは、彼女には覆せないという話。この流れでゆくしかない。

元に戻せない。恐竜の絶滅とか、楽園追放とか、そういう話。

だけど、世の中、たまたまでしょう。そういう状況になるのもならないのも。社会の中の道徳だけでは、人間の中にある感情は押し留められないケースはいくつもあるでしょう。

そういう状況に陥っていない人も、単に運が良かったとか、自らそういうシチュエーションに陥らないように注意深かったという事でしょう。逆に言えばもし近づいていたら自分もやられるという本能が有効だったという事。

ベッキーというキャラクターとのギャップがこの話題の中心であって、ある意味では、よう今まで騙してきたな、おまえ偉いわ、という感心であって、なんというか、2016年は、中国経済の停滞、ヨーロッパのテロ、中東の難民問題、そして、舞台裏を暴露するベッキーとSMAP。

これで1月である。もう十分すぎる程の事件は起きたような気もするが、これがあと12回は繰り返される。どうも2016年は動乱の幕開けのような雰囲気がある。

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ベッキーさんにおきましては、LINE情報が次々と公開される被害にあわれまして、まことにご愁傷さまとしか言えません。LINEはパスワードで保護されているし、スマートフォンも保護していることでしょう。そういう中でふたりのやり取りが文春で公開されることは、果たして合法的に可能なものでしょうか。

「ゲスの極み乙女。」のボーカル 川谷絵音とベッキーのLINE内容流出に関する高木浩光先生の見解(若干の訂正あり) - Togetterまとめ

そこにあるものは個人のプライバシーの侵害や不正アクセスなしで、そうやすやすと公開されるものとは思えない。

とすれば、持ち込んだ人によっては刑法で処罰の対象となるのではないか。もし、それが他人が盗んだものであり、刑法的に×になれば、自然と文春は民事においても損害賠償請求の対象となる。

恐らくこの報道による損害は数億では収まるまい。下手をすれば(ここではアメリカだったらの意)50億(ドル)くらいの損害賠償請求をぶちこまれても不思議じゃない。これにより文春は当然ながら潰れちゃうのだけれど、もちろん、彼らにも弁護士はいるのでどう和解しますやら。

そもそも論としては、まず第一に、これが当人の会話であるという証拠はどこにあるのか。もしこれがまさに彼らの会話ならば、では誰が漏洩したのか、まさか当人たちのタレこみか、様々な疑問はぬぐえない。

そう考えていると、どうして騙されたくないという気持ちがこうも強いのかという心理が分かった気がした。

騙されたくないという気持ちの裏には、ある特定の情報に基づいて判断し、行動した自分というものがある。ある考えの根底にはそれを裏付ける情報がある。

よって騙されていた場合、例えば先の戦争もそうであるが、その時の意見や考えは根拠を失ったわけで、すると、それまでの言動は本当はなかったことにしたいのだけれど、経過した時間を巻き戻すことは不可能だから、その時の行動した事実だけは残る。

つまり、これは非常にみっともないだろうし、汚点にもなるだろう。取り返せない間違いというものはあるし、騙されていたから仕方ないというエクスキューズもあるのだが、いずれにしろ、それを見抜けなかった間抜けさだけはエビデンスとして疑いようがない。

そこで、あらゆる情報は初めから幻想として扱えばよく、常にエクスキューズを持った態度を取っておればよい。常に仮定に基づく仮説としての意見しか言わなければいいのだけれど、そうそう人間は簡単にいかないのである。

人は感情に簡単に流されてしまうし、特に年を取ってゆけば、前頭葉が老化して己を律する、感情を抑制する、考えの途中で立ち止まることが困難になってゆく。

相手に損害を出しそうな事案では口をつぐむという手段もあるのだが、しかし、所詮は、プライベートを切り売りするタレントのこんなに面白い話をしないのも詰まらない話なのである。

居酒屋談義での酒の肴としてはこれほど旨いものはない。更に、まだまだ薪をくべる気まんまんなのであるのだから、見逃せない(いや、本当はどうでもいいのだが)。

それでも今もっとも気になっているのは、次のイッテQでベッキーはどんな顔をしているのだろうか。それを周りのみんなはどう流すのだろうか、という点である。

あと、甘利大臣はどうなるのだろうか。TPPをまとめたと思ったらいきなりだったから笑ってしまう。

これがゲスの極み、鬼畜の所業、諸行無常の響きであるか。

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車田正美の真骨頂は聖衣の発明だと思うが、それを支えているのがとにかく素晴らしいデザインだろう。これはもう、20世紀の仏像じゃねぇか、と思うほどほどの造形力であって、だからおもちゃが如何にもみすぼらしいのは悲しい。

仏師を呼んででも彫らせんか、と思うくらいに既存の製品は造形が弱い。聖衣は当然ながら甲冑だから、見た目がプラスチックでは話にならないのである。金(Au)が防御するのに適した金属かどうかは知らないが、少なくとも剛力さが感じられなければお話にならない。さらに青銅でも鉄でもない質感が欲しい。せめて鉄の上に金箔するとか、と思わぬでもない。

ちゃちさが一番の厳禁だと思うのである。武具としてならは、比較対象は日本の鎧兜や、西洋の甲冑であるし、立像ならば、仏教の十二神将像と並ぶべき存在であるから、やはり、それには国宝になるくらいの造形力を見せて欲しいのである。

聖闘士はそれに値するだけの造形を持っていると思っているのだ。

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同一労働同一賃金は、国際労働機関が掲げる憲章の全文であり、基本的人権のひとつと定義されている。

その理念は簡単で、同じだけ仕事したなら同じだけの賃金を払うのが当たり前。性別、人種、年齢、宗教、雇用形態などで差別するのはおかしいだろうという事。だから、根本にあるのは経済ではなく差別問題である。

この差別と闘うという社会的正義を隠れ蓑にして、日本で何を起こそうとしているかと言えば、早い話が社員の給与をこの原則に則ってパートと同程度に下げようというだけである。

社員の給与を下げるのが最も効率的な生産性向上であることは明白である。それを実現すれば、企業(と雇用主、資本家)は莫大な利益を手中に収めることができるのである。

同一労働を同一賃金にすると何がおきるか。当然ながら、生産性を向上させようとする働きは雇用主だけの特権ではない。労働者もまた生産性を上げるように行動する。

すなわち、労働者にとっての生産性とは、最低の労働で最大の賃金を得ることである。よって賃金が統一されれば、日本の製造業、サービス業、他のあらゆる業種において、もっとも程度の低いレベルに合わせて労働をする事が基準となる。

頑張ったAさんと手を抜いたBさんが同じ賃金ならば、AさんはBさんと同等の労働を提供しようとするのは自明である。

つまり社会主義的生産性によって遠からず国内の製造業は停滞するはずである。それを目指す施策としか思えない。当然ながら、製造業、サービス業は細部に魂が宿る部分があって、ほんの小さなこだわりが全体の質を底上げする。

たばこの火をつけるのにもどれだけの小さなこだわり、気配りがあるか。それらをこの政策は市場から駆逐するだろう。小さなこだわりが評価されないのなら、それを行う理由がない。

この国の製造業、サービス業は全滅する。その上で何が残るのか。資本家だけが利益を上げられる仕組みを作ろうとしているように見えるが、どうも国の根幹から切り倒そうとしているようにしか見えない。

労働市場が競争を失い、最低レベルに合わせる考え方が充満したとき、この国の労働市場に何が起きるのか、長い歴史の中で培ってきた勤勉さ、まじめさ、仕事への忠誠は消し飛ぶのではないか。それは長い歴史の中で一度も味わったことのないような、国の根幹が破壊されてしまうのではないか。

だけれども、資本家たちには最後の切り札があるのだよ、げーる君。それはAIを搭載したロボットである。ロボットで労働力の確保できれば生産性の低い人間など駆逐できると踏んでいるのである。

この国が長い間かかって培ってきた美意識が失われようとしている。そしてそれをしようとしている人たちは、ただ最後に勝ち逃げしようとしているようにしか見えない。後は野となれ山となれ。

どうせこの国の人口推計から言えば国力を失うことは目に見えている。ならば、その前に稼げるだけ稼ぎ、宝の山を根こそぎ奪ったら、後はアメリカにでも移住するさ。その後のこの国の行く末は中国なりアメリカなりがご勝手に。

そういう壮大な社会的実験をしようとしているようにも見える。それに耐えるだけの強靭さが保ち続けられるだろうか。二度ともとに戻せないくらいの破壊が起きなければいいのだけれど。。。

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