今の女優の主戦場はCMであって、CMヒエラルキーから脱落すると、テレビのバラエティや舞台などに追いやられることになる。もっとも、女優と名乗るには映画やテレビドラマが必要である。だがCMに出ない女優はどれだけ映画で主役を張ろうと所詮は二流扱いである。

なお以上は女優のヒエラルキーであって演技とは何の関係もない。そもそも邦画には演じるだけの価値を持つ脚本などほぼ皆無なのだから、そこに演技を求めるのは酷である。

落ちぶれたらバラエティ、離婚間際のテレビ出演。これは合理的な推測である。離婚したら収入源が減る。それまでの収入を補うためには自ら仕事を増やさなければならない。休業明けならば自然とテレビなども喜んでオファーをする。自然とテレビ出演が増えるわけである。

4月に入って目立ったのは上戸彩の登場だろう。焼肉だ、携帯だ、ドラマだ、バラエティだ、なんかよく見るようになった。昔よりもなんだか頬が削られてダダっぽい平面さを感じるけれども、存在感はいまだ健在である。




あと驚いたのは「毒島ゆり子のせきらら日記」。前田敦子が主演のドラマで、最後はAVかと思うような描写であるが、その時の表情はAV女優としてはいまいちであった。彼女にはやはり、そういう演技は無駄である。だいいち、かわいくない。

だが、日常における演技はなかなかいいと思った。やはり顔が崩れて不細工だから、演技だけがストレートに楽しめる。彼女の演じているという意志が見て取れるので、それがいい。

もちろん日本のドラマは脚本が漫画的なので、どうしてもコミカライズ化された演技が要求される。それに彼女の演技はよく合っている。



女優の不細工さ、または不細工な表情というのは、演技の上ではとても重要であるらしい。AKB が不細工と並々をミックスすることで、可愛さのヒエラルキーを明確化するとともに、ブースター効果によって、並が上にアップグレードする集団的心理を狙っている。

これを今時の女優は自分で演じることでこの効果の恩恵を受けようとしているのである。コミカライズとシリアル、崩しとフォーマル、不細工と可愛さ。いろいろな表情を使って、そこにある高低差を自分の個性にしようとする戦略である。

そういう意味では桜井日名子のCMが4月の一押しである。そこには不細工な顔とはっとするような表情の混在がある。




顔の表情ではなく、体の動きでコミカルさを表現しているのが相武紗季である。



では、石原さとみはどうであろうか。彼女の中にも当然、美と醜女の共存があって、更には、年を重ねて出てきた新しい魅力を模索しているように見える。




もちろん、テレビに映る彼女たたちの姿は、彼女たちの多くの中の切り取られた一枚である。その一枚の中にも真実はあるが、またその一枚から彼女たちの全体が見えるわけでもない。もっとも美しい瞬間を切り取ったとも言えるが、逆に言えば、彼女たちがもつ本当の自分とは程遠いかも知れない。

そうと知っていてもあれこれと語りたくなる。それは今の彼女たちに興味があるからではない。明日の彼女たちを見たいからだ。
『シン・ゴジラ』予告


腹立たしいことに、この予告を見て少しばかりの期待をしてしまった。

もちろん、幾つもの異議申し立てたのシーンはある。いったいどういう理屈でこうなるのか、という疑問である。

ゴジラは予告編のくせに、人物のアップが多い。邦画の人間ドラマなど大したはずはない。だから、人間が多く出てくるのは悪い予感である。

そもそも論でいえば、現在の戦車がどれだけ強力な砲を搭載しているのかという話である。戦車の装甲がどれだけ強化されてきたと思っているのか、という話である。たかが蛋白質の固まりであるゴジラがどれほど頑張っても金属の固まりに勝てるはずがないのである。これは電磁気学の当然の帰結である。

そのような戦車でさえ現代の空からの攻撃の前では蟻を踏み潰す子供の如しである。F-2支援戦闘機が搭載するミサイルの威力がいかほどと想定しているのか。

陸海空のうち、ゴジラとまともに戦って負けそうなのは護衛艦くらいなもんである。

ゴジラなぞ所詮は生物である。有機物の塊である。有機物、つまり炭素を中心とした高分子であるペプチド結合が、現代兵器の直撃に耐えられるはずがないのである。もちろん、そんな話をすれば、強力な放射線を吐くゴジラがどのような生態によってそれを可能しているのか、という疑問に行き着く。

日本の映画製作者はそろって低能ぞろいであるから、科学的合理性については、追及はおろか、そもそもそういう発想がない。ハリウッドはその点ではずっと進んでおり、出鱈目であろうが、根拠を与えようとしている。

それが映画の説得力に寄与し、それがひいては映像に対するインスピレーションを生み出すと知っているからである。ハリウッドが重力がうんたらと屁理屈を考えている間に、日本のそれはマントを羽織れば飛べるんだで止まっているのである。何のためにこの国に京都大学があると思っているのか(東京大学は官僚育成のための大学だから使えるかは不明)、ゴジラは怪獣だから放射能を吐けるのではないのである。

「10式の直撃、効きません!」「何!」そんなセリフで終わらせられて溜まるか。あれだけの破壊力が効かないのならなんらかの理由が必要だ。それが作中に出てこないのならもう辟易と白けるしかないのである。

なにか設定するとしても、日本ではゴジラセルだから、で終わってしまう。なんか知らないけど架空のすごい細胞なんだよである。パトレイバーだと、ニシワキセルはがん細胞由来とかって設定していてきちんと説得力を生んでいた。

元来、ゴジラは放射能を吐くのだが、そもそも放射能を吐いた所で、ビルは爆発しない。それはチェルノブイリでもそうであったし、福島第一発電所でもそうであった。

するとゴジラが吐いているのは放射能だから爆発するのではなくて、放射能を含んだ熱線であろうと想像する。よって、放射能は何らかの副産物と考える方が妥当である。

放射能が出る以上、そこには核分裂か核融合する仕組みがある。核融合のためには高温高圧力が必要なのでとりあえずゴジラでは核分裂としよう(という設定にすれば、次に核融合する怪獣が登場させられるのである)。

すると熱線は原子核が分裂するときのエネルギーで作られたものである。するとこの先の問題は次の点に設定を付けることである。
  1. どうやってゴジラは核分裂物質を集めるのか
  2. どうやってゴジラは核分裂を起こすのか
  3. どうやってゴジラは熱線に耐えるのか
  4. どうやってゴジラは放射線障害から守るのか

残念ながら有機物は熱に弱い、特にタンパク質は熱変性を起こす。

ゴジラの口からぶわーと吐き出すものが、体の中で生成されているとすれば、体内が熱線にさらされてしまう。映像を見る限り、それは数百度というオーダーではない。ジルコニウム合金は2000度で溶ける。太陽の表面温度は5000度である(内部は1500万度)。

ゴジラのそれは吐けば爆発であるから、数千度はするであろう。体の中に数千度もする熱源があるというのはどう考えても無理である。そんな熱源を吐けば喉から口中まで大やけどするに違いない。

この熱線は生物がどうとかできるレベルではない。火を噴く人間だって、発火するのが口の外であるから平気なのだ。するとゴジラもそうであると考えるべきだろう。

すると、ゴジラは口のすぐ近くで核分裂を起こし、その熱を放射していると考えられる。そのためには、体内で濃縮ウランを生成できること。それを口から吐き出し、中性子を当てて核分裂を起こせること。その熱量を口からの吐息で任意の方向に遅れること。これが妥当な結論であろう。

濃縮ウランの生成は、ゴジラは体内に取り込んだ海水からゴジラセルにあるトリウムポンプを使って、細胞内にトリウムを蓄積する仕組みがある。これによって普段海中にいる理由も明白だ。海中で不足しがちなトリウムを常に補充していると考えられる。

トリウムポンプを使って、トリウムをどんどん濃縮する細胞をゴジラは持っている。それが喉の近くにあって、その濃縮したトリウムを使って核分裂を起こしているのである。

ここまでは簡単な話だ。問題は、これをどうやって核兵器なみの核分裂を起こすかである。オスロの天然原子炉のように水を使えば核分裂は起こせるが、核兵器のように一気に爆発的反応を起こすには何らかの仕組みが必要であろう。

そのためにゴジラは高濃縮したトリウムを口前に高速に吐き出してぶち合てているとする。口中の6つの袋から高速(音速も超えるほどの)勢いで口の前で充てることで核分裂を起こしていると設定するわけである。超高速でぶつけてやれば高圧力と高温が生まれ反応するわけである。

それだけ強力に吐き出す能力があるから、ゴジラは目の前で起きた核分裂に対してその熱量を浴びずに済むわけである。

口からそれだけ高速に吐き出したものは、吐き出された方向に向かって核反応をしながら飛んでゆく。もちろん莫大な放射線も放出されるのであるが、ゴジラの細胞は鉛を多く含んでいて、細胞レベルで鉛の壁を持っていると考えられる。

そうすることで、放射線からの被害を低減しているわけだ。もちろん、傷ついた細胞を修復する機能も強いのである。

吐き出された物質は、核分裂をしながら進んでゆく。その熱量は上にも上がろうとするが、あまりに高速なために、その反応が広がりながら、吐き出された方向に到着するまで進むわけである。

よってゴジラは決してガスを吐き出しているわけではないと結論できる。吐き出した物質が核分裂によって熱を生み出す。この熱が空気を熱膨張させる。これがゴジラが起こす爆発の原理である。

この吐き出す強さを使えば、仮に核物質ではなくても十分に協力である。息を吐き出すだけで竜巻も起こせそうであるし、海中でやれば津波だって起こせそうである。

米ゴジラでは、放射能は繁殖のために必要と説明がされていた。それが科学的かどうかよりも、何らかの説明付けしようとすることが、物語を広げることが重要なのである。

架空の物語である以上、完全な整合性などあり得ない。また、それが作品の面白さを決定付けるわけではないが、それでも何らかの説明を試みる努力が作品の幅を広げたり、新しい面白さを発見できる可能性を持っているのは間違いないと思うのである。

いずれにしろ、現在の自衛隊の兵力があれば、宇宙人の侵略ならいざ知らず、未確認のたった一匹の怪獣ごとき、退治できないはずがない。これが信念である。

付け加えて今回のゴジラは体の奥の方がまるで溶岩のように赤々と輝いている。これが光の反射ではなく、体の中から発光しているのは自明である。

蛍やクラゲのような低温発光(効率が抜群にいい)ではないことも色から明らかだ。あれは溶岩と同じだからだいたい1000度くらいのつもりであろう。そういう熱を持っているというのは、果たしてどういう仕組みかは分からない。ましてそれがゴジラという生物にとってどのような利点を持つかもだ。

だが、これはなかなかの良いイメージなのである。

エネルギーの観点で言えば、熱がもっとも使いにくいエネルギーである。よって熱のエントロピーの大きいわけである。つまり、赤々と熱を放出しているという事は、何か効率の悪いことをしていると考えるべきだ。古生代の生物だって効率を追求していたはずである。生物にとって非効率というのは進化において不利なはずである。よってそれはゴジラがほとんど絶滅状態であることの理由付けにはなる。

と、そのような理屈をつけたとしても、兎に角、これはかっこいい。その造形は必ず新しいファンを獲得するだろう。科学的合理性など後回しにしても、この造形力だけでもう十分に素晴らしいのである。これを別の言葉でいえば、中二病と言う。

この中二病が映画で動き出せば更にかっこよくなるのは当然である。このカッコよさだけで少なくとも15分間は、世界中の人々を魅了できるだろう。

だから問題は残りの1時間半となる。陳腐な人間ドラマが時間稼ぎとして入るだろう。ゴジラという災害にどう立ち向かうのか、考えの対立する主人公たち、無能な官邸、そして、出世も捨てて困難と対峙する官僚、命令違反する自衛官、学会から追放された科学者、荒唐無稽な解決策、それで面白くなるか、頭が痛くなるか。いざ勝負!


あれ、柴咲コウ、顔が変わった?すわ整形か、という話はあるけれど、女性も年齢とともに顔は変わるものだ。年齢で変わらなかったのは安達祐実くらいじゃなかろうか。

まず10代で2回は変わる。15才くらいに一度、18歳くらいでもう1度。その後は、暫くイメージは変わらないけれど、お肌の曲がり角、27才くらいで3度目が来る。そして33才くらいで4度目、この先はもうなんともかんとも。

これは全て重力が悪いのである。あと太陽も悪い。紫外線でよく痛めつけてくれる。タバコもすごく影響する。もちろん、遺伝的に老けやすい、老けにくいもある。

というわけで顔が変わったとしても整形とは限らない。彼女たちは髪型や化粧でイメージなどどうとでも作れるのである。腐っても女優である。



柴咲コウのCMは好きで見る。早送り中でも止めて見る。歌も悪くない。ただ、見たり聞いたりするけど、どれも買うほどではない。そういう意味では何もかもがほどほどの良さである。それが彼女の長所でもあり欠点でもあるのだろう。

彼女は何もかもが及第点なのだが、逆に、これはという一点突破的なものはない気がする。それが今後の活動で丁と出るか半と出るか。

女優には乗り越えるべきたくさんの壁がある。そのひとつが30台の壁だ。これを乗り越えられた人は極めて少ない。更に40台の壁となるとほんの一握りだ。

日本における女優の存在は、プライベートが既に女優そのものであって、そこからイメージが始まっている。柴咲コウは柴咲コウを演じている誰かである。報じられる私生活も含めてそこからまず柴咲コウが始まっていて、その延長線上にCMに出る彼女、映画でまた別の誰かを演じる彼女というような二重構造がある。

彼女たちの0次元に本当の彼女たちが居るのだが、それは決して見る事はできない。決して外には出てこないからである。もう少し言うなら、人間というのは誰でもそういう側面は持っているだろう?

そんな彼女たちがあらゆる手段を使って自分たちの未来を切り開く姿を視聴者に提供する。その姿が我々の興味を惹かない訳がなく、若い世代のからの突き上げにどう対応してゆくのか、かつて自分がたどってきた道を、狩る側から狩られる側に逆転した時にどう生きざまを見せるのか、そこが彼女たちの魅力なのである。

まるできらきらとした魚が川をのぼおってゆく、そのものの姿である。
退屈という点では宮崎吾郎よりも高畑勲の方だったりする。アルプスの少女ハイジも赤毛のアンも退屈極まりなかった。それでも見た記憶があるから不思議だ。

太陽の王子ホルスの大冒険の面白さはもりやすじのヒルダに極まるし、火垂るの墓はあの音楽がなければ逃げ出していたかも知れない。

おもひでぽろぽろは、気持ち悪い頬のラインと、田舎臭いのに人工的という声優(柳葉敏郎)のせいで、もうどれだけ新しいことに挑戦しようとしているんだよ、全部裏目じゃないかという感想と、しかし、これはこれでありかもという境界線上で悩みながらも、愛は花、君はその種子が聞きたい一心での鑑賞である。どれだけの苦行だよと思ったりはする。

しっかりと場面を描けば遅い展開になるのは当然に思える。特に心理描写に時間を割けば尚更である。

移り変わる心理描写は純文学の範疇であって、それをアニメーションに持ち込めば、純文学と同じ道を辿るのが理屈だろう。そこに待っているのは、退屈で面白みのない薄っぺらな日常である。

もう、いつもより精子の量が多かっただの、キスの時に餃子の味がしただの、そういう話をえんえんえんえんえんえんえんえんえんえんえんえんえんえんえんえんえんえんえんえんえんとちょっと気取った文体で読まされるのである。いい加減にしろと叫ぶ前にページを閉じて当然である。エロ本を書くならもう少し真面目に書けと言いたい。

それでも、僕は高畑勲の平成狸合戦ぽんぽこが大好きである。もちろん僕だって最初は下らなさの極致だと思っていた。それが20年の月日の間にその面白さが分かるようになったのである。

昔の僕は広く無頓着であった。物語の中にあるメッセージ性やその追及の仕方にばかりフォーカスしていて、清川虹子の芸の力への感受性が皆無だったのである。

彼女の声に誘われて狸の競演に見入り、物語の前でたたずんでいるうちに、狸が駆け始める。いつでも誰かが聞こえてくる頃には、僕の中での高畑勲の評価は全く違ったものになったのである。

今日見た作品を退屈の一言で片づける事は簡単だし、それが間違っているとは思わない。しかし、だからと言って明日も同じ感想で居られるとは限らない。

明日には明日の感想がある。今日のブスは明日の美人かも知れないし、今日の美人が明日にはブスになっているというのは女優を見ていれば枚挙に暇なしである。

宮崎吾郎は今のところ、歯牙にもかける必要のない作家だと思っている。彼から感動を頂いたことはないし、まずメッセージ性が陳腐だ。陳腐の上に、何か鬼気迫るものもないから(もちろん、これは彼の作品を見たことがないからなのだが)、なおさら評価する気にならない。

更には、お父さんとの関係以外の何かが彼にはあるのだろうか、という感じである。もう、ふんふん、プレッシャーはすごいだろう、頑張れよーくらいなものである。

彼が何に悩み、立ち止まり、迂回し、のたうち回っているか、それが聞こえてくる気配がない。宮崎駿の七光り以外の何に苦しんでいるのか。とさえ言いたくなる。

と、その割りには親に反抗する気配もないわけで、あの宮崎駿の息子がエロアニメの大作家になった!とかの方がよっぽど笑い転げられて、楽しそうである。まぁ、そんなことしたら本気で勘当されそうだ。下品です、非常に不愉快ですとかコメントされそうである。

今の彼は、少なくとも同じ路線じゃねえか、という印象をぬぐってからでないと評価に値しない。親子だからって、正統な後継者になれる訳ではないし、作家性とはそんな薄っぺらな伝わり方はしないはずである。

だからエミー賞と聞いても、だから?という感じしかない。軽くみた限りでは、山賊の娘は見たいと思わせる作品ではなかった。どうせ人権でしょ、という感じである。山賊である必要性さえなさそうだった。人の売り買いをしていっぱしの山賊だろ、的な実像に迫るわけでもないし、なら山賊ってなんだよ、峠のむすび屋かよ、という感慨しか持てない。

それでも誰かの評価を得たのなら、それはとても素晴らしいことだ。詰まり僕にとっては退屈な作品でも、誰かにとってはとても大切な作品であるという、とても当たり前の話に帰結したのだから。

彼が本当に好きなものはなんだろ、それが今までの作品からは見えてこない。どうせ作るなら、自分の好きなものに対するオマージュが感じられる、ドキュメンタリーのようなものの方がいいんじゃないか。そんな気がする今日の話である。
Goodbye Happiness.


名曲の定義は難しい。デジタル化のお陰で、曲が好きなのか、それとも PV を気に入ったのかの分からない。好きの境界はあやふやだ。

一概に曲と言っても、歌詞もあれば、リズム(拍)もあれば、メロディ(律)もハーモニー(和)もある。アレンジが好きなのも含めて、その曲だから、どこを気に入っているかに対して、曲という構成は余りにも巨大過ぎる。

もしかしたら、好きは局所にしか存在しないのかも知れない。しかし、その一部を好きであるためには、その全体、すべてをを受け入れなければならない。そういう構造を本質的に持っているのかも知れない。

インターネットの記事で使われる名曲という呼び方が、単なる流行とか、著名な、とか膾炙している程度の意味でしかなく、とにかく聞いた事さえあれば名曲と呼んでいるような気もする。

だから、名曲と呼ぼうが呼ぶまいが、すべての人にとってその人生のシーンに曲が流れていたりするもんだから、良い悪いを超えて音楽の力があると言ってもいい。それはきっと寄り添う力だろうと思うのだけれど、それが様々な場面にあるもんだから、もう世界は広すぎる。

きっと誰も聞いた事のない曲にも良い曲はあるはずだし。

見る人もなき山里の桜花ほかの散りなむのちぞ咲かまし (伊勢)

いずれにしても、宇多田ヒカルは、自分にとって日常で聞こうと思う人ではない。なぜだろう、と考えても、分からない。

それでも映画で流れたり、ラジオから聞こえてくれば、耳を沿わせるように、澄まして聞いてたりするわけだ。生活の中に流れる音楽と言えるかも知れない。

宇多田ヒカルといえば、音楽よりも、バイリンガルの無礼さを未成年という説得力で日本に浸透させてしまった点が斬新だった。日本の礼儀を知らないのなら仕方ない、という感じで受け入れられてしまった。それは明らかに何かが外部から入ってきたものであって、ある意味、黒船来航ってあんな感じかなと疑似体験させてもらったのかも知れない。

ネィテブに近い(発音の)英語ができるという説得力が圧倒的な力を持ったともいえる。そうだ、英語ができれば、世界は広がる。少なくとも、この国から出られない理由はひとつは減る(もちろん英語なぞ話せなくとも外国に出て行った人はごまんといる)。

英語が喋れれば決して偉いわけではない。もしそれが正しいならば、アメリカの5歳児は日本の80歳のおじいさん(海軍出身を除く)よりも偉いという話になる。しかし、あちらの国の5歳児にできることが、日本人ができると急に偉いと思ってしまうのだから、なんとも語学は不思議だ。

しかも、その能力は往々にして育った環境に依存する話であるから、それなら生まれて来た場所を呪うがいいと言う話であって、どうやら日本人は根っからの世襲好きという結論になる。

まぁ、ともあれ、宇多田ヒカルの記事が増えたのは、4月に新曲がリリースされたからである。成る程、ひとつの大きな泡がぷくっと生まれる。すると、その周辺に小さな泡がぷくぷくとたくさん出来てきて水面を覆う。トイレでよく見るあの泡である。それが起きているわけだ。
「平均年齢が若い。若いってすごいなと思う。私が言うのもなんだけど、エネルギーがすごい。負けてられないって思った」




なぜか予言したくなるのだが、彼女は二十歳を超えたあたりで一度パッシングを受けるだろうと思う。それは、今の若い彼女の中にある自信に満ちた立ち振る舞いに原因がありそうだ。彼女を見ていて、何故かイライラするのだ。

何にイライラしているのだろう。それがよく分からない。そこを深く追及したら、たぶん、グログロとした自分自身の姿が見えてくるだろうから、あえて蓋をする。寝た子を起こすな、とはこういう事である。

そうすると、イライラの原因とは向き合えなにので、どうしても、このイライラと対処しながら、やり過ごすしかない。モヤモヤとしながらでしか、それと向き合えないので、これでは問題を解決することは不可能だろう。

そういう場合の対処の多くは、発散でなければならず、それは通常、暴力的なビヘイビアの側面を持つ。ただしフィジカルバイオレンスではなく、ストレスの発散としての側面が強く、それはエモーショナルなヘイト的行動である。

要は、彼女は、パッシングという嵐に向かって航海している豪華客船であり、それを俯瞰しているわけだ。しかし、若さとはある意味そういうものでなくてはならず、相手の力量を知らなくても立ち向かえるタフネスさ、何に対しても持てる根拠のない自信、自分の将来と幸運を信じることができる軽さ、があって当然なのだ。

こういうものは、年を取った人から見ると、無知、蒙昧、愚弄と映るかも知れない。しかし、若い以上、経験も知識も乏しいのは当然である。仮に知識があっても現実感は薄いだろう。それ故、逆に、無知は若さの欠点ではなく、長所である、と言わねばならない。

無知でなければ突破できない壁がこの世界には幾つもある。壁が高いほど、それに挑んだ人たちの死屍累々もあろうが、それを突破するには、挑む以外の方法などない。

ただ、彼女が挑んでいる何かが、恐らく、僕の目にはとても詰まらなく見えているのだろう。彼女は有能なアクトレスだろうが、どうも、そうか、いうほどか、勉強の後も、彼女の工夫も見えないんだけれど。そう、断言できれば良いのだが、時々、彼女の演技にハッとさせたりするもんだから、さらにイライラが募る。

要は、僕には彼女が他の多くのアクトレスと同様、天性だけでやっているように見える。それに無自覚であることが、僕のイライラの琴線に触れるのだろう。
いまのデザインは丸みが主流にある。車もそうだし、電車もそうだ。その理由のひとつは流体力学のせいである。高速時の空気抵抗を考えれば丸くなるのが自然だろう。マグロの流線形もそう言っている。

反例としてF1などを見れば決して丸いってだけの感じも受けない。丸みだけがすべてではないのかも知れない。ジャンボ旅客機は丸みだけれども、F-22、F-35 などは丸いだけの感じではない。

AKBの主流の造形も同様である。まゆゆだってこじはるだって丸々っとした方面の女の子である。指原は崩しの理論が入っているが基本筋は丸だろうか。もちろん、前田敦子のような少女鉄仮面伝説的なのもあるが、だいたいが、にこにこ丸顔派であろう。

ところが、365日の紙飛行機でセンターを努めている山本彩の登場である。



最初見たとき、彼女はスカイラインの鉄仮面(R30)の生まれ変わりではないかと見間違えた。全体的にカクカクである。ところが、それがとてもいい。丸みとは全く違い魅力が彼女の中にはある。

更に彼女の声量がとてもいい。朝ドラには全く興味はなくても、このオープニングは聞いてしまう。

彼女の声量はまるで野が震えるというか、地鳴りというか、奥底から吐き出した感があって、まるで金管楽器が震えるように、お腹が共鳴しているような魅力がある。これがとてもステキだ。

丸みが主流になって長い時代が続いた。その間に人々の中には飽きもあったろうが、空気抵抗に抗える価値観を提供できる人はただの一人もいなかったのである。どこもかしこも、猫も杓子も丸み丸み丸みである。

そういう所に丸みに対してひとつのアンチテーゼを主張しているのが山本彩の存在感である。ひとつの流行が終らろうとしている。Windows10 がカクカクに戻したように、時代は次の新しいデザインを模索している。その先頭を山本彩が駆けている。
山本美月 公式ブログ - 6話 朱色の研究 - Powered by LINE

第六話とは「臨床犯罪学者 火村英生の推理」の事である。日テレ日曜夜1030放送だそうである。楽しみ!

山本美月と言えば、もう shimeji の CM が可愛すぎて。これがもう最高傑作だろうと思う。


もちろん、彼女はいうほど美人ではない。どちらかと言えば可愛い系だから、あと数年でそのアドバンテージは失われてしまう。

俳優としては根っからの大根なので、どれだけかわゆくても大根は大根である。だが、その大根さがかわいさを生み出しているのだから致し方ない。

そんな彼女でもこれだけなら日本一(つまりは世界一)の唯一神、というべきものがある。それがぴょんと跳ねる可愛さである。これだけは、誰にも譲れない。負けもしない。

それが分かっているCMディレクターは必ず彼女にそういう仕草をやらせる。分かっていない奴はおざなりである。

跳ねた可愛さという意味で、彼女はウサギ系である。体のラインもまるっとしているし、顔の愛らしさも同様のまるっとさである。うさぎの生まれ変わりみたいなものである。食べてもおいしそうなのはそのせいである。

要するに、彼女は跳ねてなんぼの女優さんであって、跳ねるというのは、喜びを表現するジャンプから、スキップとか、上にあるものを取ろうとするとか、脚本によっては10や20は簡単に生まれる。

そういうシーンを入れてあげなさいというのが本ブログの主張であって、風俗の学生服祭りみたいなことはしてくれなくて結構である。それはそれで別のニーズがある。彼女ではない。

あ、でもどうせ学生やるならジャージ姿が(赤よりも暗い赤、深紅とかの)。。

赤系の色一覧:日本の色・和色

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1950524215&owner_id=6393203
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1948842457&owner_id=6393203
吉田豪 清原和博と芸能界ドラッグ事情を語る - miyearnZZ Labo
(吉田豪)そうですね。ドーピングも毎回基準も変わるしで。で、今回いろんな人がコメントしたじゃないですか。清原さんの件で。個人的には本当、桑田真澄さんに引っかかったんですよ。

(堀潤)えっ?どうしてですか?盟友桑田さん。

(吉田豪)あの、ね。『黒い交際とかドラッグとか、僕、ずっと注意してたんですけど。それを煙たがられて絶縁されて。僕がもっと注意すればよかったですね』っていう。正直あの、自分が上がるだけのコメントで。あの、知ってるんだったら通報しましょうよ。そこまで言うんだったら・・・って。そして、あなたのせいで、清原はこうなったっていう自覚、ないですよね?っていう。最初のつまづきですよ。うん。

桑田のコメントにはどこか見捨てた感がある。だが、それは二人の関係を知らない立場だからそう思えるわけで、彼がどれだけ嫌な思いをしながらも寄り添ったかは、僕には分からない。

少なくとも、通報するのが本当に友情であるか、どうか。ましてやふたりの間にあるものが友情であったかどうかさえも疑わしい。

通報したら彼のその後が良くなったかと言えば、そうとは思えない。それはこの話の中で何度も出てくる『寂しさ』が原因だからだ。

清原と言う人は巨人じゃなくっちゃ駄目だった人で、だからライオンズに行こうが、オリックスで終わっても、感謝はあっても愛着は感じられない。

つまり、桑田じゃダメなんだ、という話である。お前じゃ俺の寂しさはなくならないんじゃ、と知った時に、桑田はそれでも寄り添おうとしたんだと思う。これは空想だし、想像だけども、通り過ぎてしまった事よりも、立ち止まったという事の方が大切じゃないかと思うんだ。

彼の寂しさを誰が癒せるか。そういう人と巡り合えるかという話もあるが、そもそも、その人が生まれていないだけならまだしも、もう亡くなった人ならどうか。

失った思いとか時間というものがあるわけで、例えば、失われた時を求めて、死に至る病、に罹患した者は、悲劇の誕生、に遭遇した訳である。そこから、人間的な、あまりにも人間的な、弱さの中で、善悪の彼岸、を渡り、そこで、この人を見よ、田代まさしを見よ、と出会う。曙光、の中で。

いや、そういう目で見ると、桑田のこの話が断然と面白い。

吉田豪・コンバットREC・サミュLが語る 桑田真澄の昔のイメージ - miyearnZZ Labo
(吉田豪)桑田がキャラチェンジしすぎなんだよね。あまりにも。僕らの中の知っている桑田と違うじゃない。桑田って言ったら『投げる不動産屋』であり、『アニータ』であり、『宮沢りえちゃん処女かな?』であり、『中牧、コンドーム買ってこい』であり・・・(笑)

彼はただ人知れず克服できた。幸運にも、それだけの違いであって、誰が同じ道に向かっても不思議はない。
ただの劣化版 AVのくせに、芸術づらする日本映画は本当にやめてほしい。成海璃子のセックスシーンがどれだけあっても、映画が下らなすぎて見る気が起きない。もちろん、最初から見る気などこれっぽっちもないけど。

だいいち、ぽっちゃりしていない成海璃子のどこが魅力的なんだと問うたたい。役作りで、きちんと体重を落とす彼女のプロ根性はプロボクサー並みに立派だと思うが、僕たちは彼女のぷるんぷるんとするお腹の肉が見たいんであって、余計なことをするな、この腐れ監督がと言いたい。お前には女の魅力のオの字も分かっちゃいないんだ。

そもそも論として、この程度の監督の世界観に、どれだけの人間が描けるというのか。ぽちゃっとした成海璃子を使わないくせに、映画だの、芸術だの、衝撃作だの、濡れ場に頼る以外何もできない無能が、この小心者の低能。

ぽっちゃりしてタバコを吸う成海璃子は、まるで樹木希林みたいな雰囲気があって、上手く育てばいい女優になるという予感がある。それをバカな監督が、下らないゲス根性で減量させて下手くそなベットシーンを演出する。

女優に AV の真似事をさせて喜んでいるだけの脳足りんが、予算がどうの、公開先への気配りがどうの、世俗にまみれただけの下郎が、監督を名乗るんじゃない。こういう連中は世界から駆除すべきであって、よってたかって日本映画を食い物にしては斜陽させ破滅させている。だから日本映画は下らないの代名詞に居続けるんだ。

日本映画など才能の欠落したクズの集まりである。

あー、しかし、予告編は張っておく。成海璃子ちゃんかわいいである。