この映画のヒットで完全に庵野秀明は、日本映画のトップの位置を確立したなぁ、という所感だ。小僧、小僧とばかりに思っていたら、いつの間にやら大家、大御所かよ、という声が聞こえて来ないでもない。

いずれにしろ、ヒットするということ、収益で黒字を出すという事は、作家性だの独自性、個性などよりも、更に言えばオリジナリティそのものよりも、または歴史に作品が残るというような野望よりも、ずっとずっとずっーーと重要である事が分かる。

100年後に再発掘される、というパターンも捨てがたいが、やはり生きてなんぼ、生きている間にその時代の第一人者になるということは重要である。

思えばドストエフスキーも食うために作品を書いたのである。もちろん、そういう正宗白鳥みたいなことを言えば、秀雄くんから怒られてしまうかも知れない。

だが、死後に名声がはっきりしているとか、未来の時点から振り返れば、この作品こそが、その時代を色濃く表現したものである、という発見をすることは容易いものである。しかし、だからと言って、過去を振り返った所で、その時代から逃れられるわけではない。

民主主義には民主主義の呪縛があって、我々が、奴隷制度の美しさを謳歌したり、幼女を侍らす楽しさを評価する事が出来ないのと同様に、過去には過去の、未来には未来のひとたちの価値観がある。

もちろん、言論の自由とは、そういうものを含めて、全てを認める所が強さであって、そのただ一点を以って、最も長く生きながらえる価値であると考えられる。

いずれにしろ、監督として大成したんだ、もう気軽に会えるような人じゃないんだ、見たこともないけど、という感慨のほとんどは、このヒットによって裏付けられた。アニメでもヒット、実写でもヒット。いずれも面白い。誰の文句があろうか。

そこにメッセージ性がある。もちろん、正確にはメッセージ性があるように見える、である。実際の所、エヴァンゲリオンとは何であるか。それについて誰も明確な回答を得ていない。もちろんそれは作者も含めてなのである。当然ながら彼は作品を作るたびにそれを削り出すように見つけなければならない。

まだそれを探している途中だから、観客もそれを希求する。作家も止めることなど出来ない。見つかっていないものがあると言った以上、見つかるまで掘り続けるしかないのである。

例えるならば、オオカミ少年がゴジラを見たと言い張っているようなものだ。村人の誰もが、それを見るまではあきらめるなど出来ない。

名監督とはその時代を狐付きにする人だ。狐が落ちてしまえば、あっと言う間に忘却されるかも知れない。ある時代に大流行した作品が誰も覚えていないと言うのは珍しくないのである。

幾世代の時代がありました。それを超えて行ける力があるか、どうかの分岐点がどこにあるかは誰にも分らない。忘却されたと思ったら再発見されることもある。分からないが、そこに何かがあると思わせる事が大切なのだ。その予感は面白さを凌駕する。

そしてエヴァンゲリオンに誰もが納得する答えなどない。数学でいう所の解なしが答えである、という事では誰も納得できない。この答えのない答え探しという矛盾がエヴァの魅力の源泉であろう。

それは解がない。逆に言えばどういう解でも成立する(しているように見える)。これはある意味すごい話であって、作品は解釈の数だけ、幾らでも生み出せるのである。何故ならあらゆる解が不正解だから。不正解ならば次の解を探すしかないではないか。

エヴァンゲリオンは既に庵野秀明の解釈でさえ、正解ではない。原作者のそれでさえ、解釈の一つでしかない。そういう所に来てしまった。別の人が同等の作品を示してみれば、それが新しい解として受け入れられるだろう。

悲しむべきは、未だに庵野秀明以上の作品を生み出せていないだけである。もしそのような作品があれば、誰も庵野秀明の作品を早く見せろなどとは言わなくなるだろう。幾つもある解釈のどれが好きか、という問題に収束するからである。

するとエヴァンゲリオンは庵野秀明だけの話ではないのであって、彼がすべきは作品を終わらせることではなく、その世界観を次の人に託す、その意思を示すことになる。つまり、作品が続く事、それが多世界という概念の中の一つに過ぎないことを示せばよいという事になる。

思えば、この世界には、納得できなくて次を見せろという作品が数限りなくある。その最初はヤマトであったろう。プロデューサーの金銭的切実と作品の力が見事に合わさった。お陰で人々が呆れるまで作り続けた。それもひとつの終わらせ方だ。

ガンダムは多くの作家に時間軸を開放する事によって、幾つものストーリーを生みだした。スピンオフという魅力によって世界が拡散する。そのひとつひとつがガンダムという世界の模索と言ってよい。

どこまでならガンダムと呼びえるのかを試しているのに等しい。実際、ファーストからターンAの世界観が同じガンダムで統一できるのは何故か、という思索はもっとなされてもいいと思える。

エヴァンゲリオンは多世界の作品である、異なったエンディングが用意されているのに誰も文句を言わない。それはまるでゲーム的世界観である。

何を選択したら、どういう世界になるのか。それは誰にも分からない。ある状況で違った選択をしたら違うエンディングを向かえる。制作した年度が異なれば違う作品になってしまうのである。それは作家の日常に強く影響されていると言ってもいい。

まぁ。ゴォジッラである。宮崎駿の丁稚だとばかり思っていた庵野秀明が大監督なのである。巨匠になってしまったのである。それがアニメだけではなく、日本映画全体の、なのである。なんだか大きく見えてきたなぁ。遠くに行ってしまったなぁ。

まるで東郷平八郎のようだよ。
によれば、シンゴジラは、ごく普通の危機管理サスペンスと呼べそうである。日本では快挙かもしれないが、ハリウッドには(実写でもドラマでも小説でも)幾らでもある。それこそ売るほどある。

日本だとこういう政治を含めたパニックもの、緊急ものと言えば何があるだろうだか。もちろん、歴史ものは除こう。

例えば特車二課の一番長い日などはそれなりの作品である。登場人物には、現場と政治家と官僚が揃えばよろしい。

日常でなら、断然、ゆうきまさみである。政治家はあまり登場させないが、官僚を描かさせれば日本一、たぶん、世界でもトップクラスの漫画家であろう。

小説はよく知らない。ライトノベルまで含めればかなりありそうである。民間のビジネスや官僚ものもたぶん、たくさんあるはずだ。

ただ邦画ではまともなものはあるまい。それは断言して良いだろう。邦画に携わるような人ではそういう作品は生み出せない。なぜなら決定的なまでに頭が悪いからである。

だから庵野秀明の登場を待たなければならなかったというのは如何とも悲しい話ではないか。しかし、それが彼を救ったのだから、その存在価値は認めざるえない。ちょっとした寄り道に過ぎないとしても、それは莫大に重要で必要必要欠くべからざる決定的な道草だったりするのである。

可能ならシンゴジラは311以前に生まれて欲しかったと思う。邦画が自らそういう映画を作れなかったことは恥ずべきだ。何かの事件が起きる。それに政府や官僚がどのように立ち向かうかというのは、映画の中では基本中の基本のパターンではないか。

しかし逆に言えば、シンゴジラの中に311を見るくらいには、あの出来事は深く我々の中に残っているわけである。もちろん、福島とゴジラがシンクロしないはずがない。

もともと、水爆実験から生まれたという設定にしてからに、第五福竜丸の事件から発想されたわけで、もしかしたら、ゴジラをまともに作るためには、日本で核による大事件が起きない限り不可能ではないか、と思わないでもない。

それほどまでに邦画界というのは低落していた訳である。庵野秀明を連れてこなければならないほど。

庵野秀明というのは希代のコラージュ師(切り貼りの作風)であって、それはエバンゲリオンでいかに聖書をちりばめて作品に奥深さを与えた(ように見せた)かで一目瞭然である。

手塚治虫が作品の中にヒューマニズムを取り入れたように、庵野秀明は、歴史を取り入れる。その実、そういうものにちっとも興味がないのは同じだ。まったく、そういう問題意識など作品のつまくらいにしか思っていないのである。

料理の素材とテーマは厳密に異なっている。そのくせに、コラージュが凄すぎて、テーマと勘違いしてしまいそうになる。

それは「自分たちはもうオリジナリティなど存在しえない時代に生きている」という話とシンクロしてくる。独自性がないなら、あるように見せる技術で逞しくなろう。そういった読者への謎かけのような面白さが突出するわけである。

同じ脚本でもアメリカで作れば非常に違ったものになったであろう。しかし、また、ハリウッドの脚本家に見せれば、こんなのナンセンスというような処も幾つもあるはずだ。

それは仕方ないのである。彼らは日本を知らない。僕たちがアメリカを知らないくらいに。彼らがナンセンスというその中に、いかにも日本らしさ、日本的なものがあるに違いない。

だから日本で作品にするしかなかったのではないか。それにしては俳優がダメなんじゃないかな、スタッフが動かないんじゃないかな、という気もしないではない。

しかし、優れた脚本は俳優を育てるとも言う。ならばこの映画で素敵な演技を見せてくれるかも知れない。

幾つもの対立軸を建てて、その間にある友情や反発という絡み合いこそ、庵野秀明の真骨頂かも知れない。そこに演出の神髄があるのかも知れない。などと過去ノ作品を思い返しながら、どうなんだろうといぶかる。

いずれにしろ、映画というものは俳優で決まる。俳優の演技でくっだらない脚本でもなんとかなったりできる。だからこの映画を観るかどうかはほとんど賭けのようなものだ。なんせ日本の俳優だから。

それでも庵野秀明の映画なら見ておきたい。彼は裏切らない。面白い、面白くない、深い、浅いなどはどうでもいい場所に、何かがある気がするからだ。

人生に、
文学を。

文学を知らなければ、
目に見えるものしか見えないじゃないか。
文学を知らなければ、
どうやって人生を想像するのだ(アニメか?)


日本文学なんて、人間失格程度につまずくような作家に文学賞あげちゃう程度で、あんなもんで人生なんて言葉を使っちゃいけないと思う。

日本文学のほとんどが性欲と気位だけの陋劣であって、あんなものに意味などない。

正しくは、


読書に、
文学を。

文学を知らなければ、
女(男、同性含む)とやるときの虚栄心が身に付かないじゃないか。
文学を知らなければ、
どうやって性欲まみれのロマンチックを想像するのだ(エロ本か?)


ま、これくらいが穏当で妥当である。

そもそも、日本文学の広告ごときに人生など語って欲しくないのである。

もちろん、広告で人生を語るのは構わない。実際に、素晴らしい作品はごまんとあるだろう。だが、しかし。こんな下らない低俗さで語るものではないだろう。

誤解を恐れずにはっきりと言えば、文学とはアニメや漫画や映画や寄生虫である。もちろん、誤解とは寄生虫を悪いものの例えに使う事である。寄生虫ごねん。

文学などそれらに取り上げられなければ、まったくもって存在価値がない。

70も超えた老作家でさえ、テレビの前で斜に構えた問答をしなければ注目されない業界である。あれが悲しみでなくて、なにがちっぽけな悲しみだ。

どう見ても、日本文学などというものは、既に死んだのである。死んでしまったものを後生大事に抱えて、なんとかしようとするのは、子供を失った親の悲しみのようでもあるが、そんなバカな話はない。

彼らの中にあるものは、うすっぺらい民主主義と、凛とした緊張感のある文体だけである。それが描く独特の(袋小路に入り込んだとも呼ぶべきか)リズムは、下らない日常の描写でしかない。だがよく読めば、それは日常でさえない。単なる空想である。そのほとんどが性欲ときたものであって、僕はこれを源氏物語の怨念と呼ぶ。

そもそも論で言えば、エロ本の原作でしかない源氏物語を、後生も大事にこの国は読み続けてきたのである。世界初の長編小説であるとか誇りにさえしているのである。ましてや海外の研究者までが、日本語を学び、翻訳をしちゃったりするのである。

もしかしたら、源氏物語を原文で読んでいる人の数は日本人よりも、ほかの国の人の方が多いかも知れない。

その内容は、現代の基準ならば、犯罪、不倫のオンパレードである。東京都も真っ青の出版規制である。女ならなんでもよくて、ついには幽霊ともしちゃう話である。

所がこの作品には、もののあわれがあるとか主張する学者まで出てくる始末。どうしちゃったんだ、この国は。そりゃ江戸時代には春画が大発展するはずである。

光源氏など幼少の頃の母親の面影を追い掛けていただけのマザコンである。かわいそうに今風にいうならPTSDを抱えた人生としか思えない。そっからの遍歴など、自分を救うための旅みたいなものである。平安版母を訪ねて3000里みたいな話である。

所がこれがたいそう面白かったらしい。当時の人々をもう魅了しまくったのである。源氏物語はただのエロ本なんかではなかったのである。抜群に面白いエロ本だったのである。ま、そういう描写はさらっと流しているので、どちらかと言えば、ライトノベルかも知れない。

その辺りは谷崎潤一郎のエロ本とはさすがに違うのである。谷崎なんざ細雪と陰影礼賛だけ読んでりゃ十分である。さすがに戦争中のひもじさの中で磨かれただけの事はある。

いずれにしても、残念ながら、この国にはこれらの作品の面白さをきちんと説明するものがどこにもない。

「決して、アニメを侮蔑するためにこの一文を入れたわけではないということをいま一所懸命説明しています」

この一文だけでも文学というものが、既に地に落ちたナマケモノ以下の存在なのである。麦ならまだ次の可能性があるが、もちろんナマケモノだって、トレイが終わればまた木に登るのである。

アニメをなぜここで使ったか。それがきちんと分析的に、合理的に、心理学的に、精神構造的に、説明できないのなら、焚書にされても文句は言えまい。

もちろん、これは嫉妬である。文学は、アニメが如何に若者に支持されているかが実のところ、分かっていないのである。それがただの娯楽を超えて、何か人生観であったり、価値観や思想や生き方にまで強く影響を与えていることに嫉妬しているのである。もちろん、このアニメの中には漫画も含まれている。下手したらライトノベルもだ。

そして嫉妬以外の何も文学にはない、という所が致命的に絶望的なのだ。文学とは、この程度の嫉妬をうろうろするしかもう能がない。

嫉妬なら嫉妬で素直に描きようがあったと言える。素直でなくても、文学的な表現はあったはずである。そんなものは隠そうとして隠しきれるものではない。

文学は、そういう感情を知った上でそれを表現という形に昇華する所に価値があるのではないか。こんな嫉妬丸出しの何も意識していない小学生のような文体で文学を語るなぞ15年は早い。

文学はね。もうジュクジュクに腐ってたのです。そう、ジュクジュク。葵みのり。
ジブリの大博覧会 我が儘でごめんなさい。


最近、なんか歌がリフレインする、何の歌だ、と思っていたら、ローニャである。さずがは宮崎吾朗ではない。さすがは谷山浩子である。

宮崎吾朗に物語の才能はない、という事はもうはっきりしていると思うが、所が、この人はなかなか絵がうまい。

特に説明する絵が本当に大好きだ。この人は説明するのがすこぶるうまい。たぶん日本でもトップクラス。

この展覧会には行かないとは思うが、宮崎吾朗のこの絵はいい絵だ。とてもいい。

何となくというより、たぶん明白だと思うが、水口幸広のカオスだもんね、と同じ系列だ。え、だったら単に水口幸広が好きなだけじゃないのという説は却下する。

両者は似通った絵かも知れないが、そこから受けとるメッセージはかなり違うように感じている。もちろん、匿名で見分ける自信はないが。

それをジブリのレイアウト展で気付かされた。ローニャにしても面白いとは思わないが、よく観察しているなと感じることが多い。物語としてどうかよりも、描写の観察眼みたいな所で悪くない。

つまり何が言いたいかと言えば、ジブリは宮崎吾朗にドキュメンタリーを取らせろという主張である。実写とアニメの半々でもいい。

制作秘話でもいいし、建築学が専攻だったらしいので、そういう類のものでもいい。

アニメと関連付けた方が話題になるだろうが、例えばパトレイバーで押井守が描いた東京の風景を、今度はドキュメンタリーとして追い掛けてみるというのはどうか。映画をドキュメンタリーでトレースしてみるのだ。面白そうではないか。興味ない?あ、そう。

兎に角、お父さんとの比較はどうでもいい。雌雄は決している。あちらの土俵での勝ち目はゼロである。だが物語は下手でも、ドキュメンタリーならいい線を狙えると睨んでいる。

ま、関係者は誰も読まないだろうが、期待しないで待っている。
史上初2連覇の指原莉乃「複雑な気持ち」 “ライバル”渡辺麻友への想い…自身の卒業にも言及<会見一問一答> - モデルプレス

なんか、すごい。完全にビジネスでやってるじゃんという感じがして好感度Up。

指原莉乃の強みはお金の匂いがちゃんとする所かも知れない。それがきちんとファンにも届いていて、疑似恋愛なら疑似として、タレントならタレントとしてきちんと成立している、そういう感じがした。

だから自分たちの矛盾にも自覚的である。

指原:今回、HKTメンバーともお話したんですが、熊本で震災があったことによって、元気のない九州のファンのみなさんがたくさんいると聞いています。少しでも元気が与えられるよう、投票してもらうという形にはなるんですが、私たちが頑張っていることで、元気が届くといいなとメンバーと話しました。

これ、すごいセリフ。震災があって、元気を与えられるように、お前らまず金を払えよ、って事だから。

無条件で元気を配れるわけじゃないんだ。こんな地震の時でもファンならお金を払って欲しい。それで私たちは輝けられるんだから。

もちろん、プライベートでは寄付をしたりボランティアに参加してるかも知れない。それでも AKB としてのビジネスは譲れない。

偽善だってやらない善よりはましだ。

鋼の錬金術師のセリフだが、ビジネスでだってちゃんと元気づけられるんだよ、と自覚しているのはとても素敵だ。

どうも無償で、というのが、美しいとされている。それも君の気持の純粋さを見せてと言う意味で。だけど、持続的に活動するなら、収支はとても重要だし、その支えがなければ、ゆきずりのボランティアしかできない。

そういう所まで考えて話しているな、という事が感じられる。そういう割り切り方ってのは、たぶん、アイドルではなくて経営者の視点じゃないかな。

彼女は、自分で自分を売り込む事にも長けている。彼女は九州に行く事でそういう考え方が身に付いたのかも知れない。

自分で自分を売り込るというのは本当に重要なスキルだ。けれど、このAKBというビジネスの中では何が最強の武器であるか、どう使えば上手くいくのか、本当に分からない。そんな中で、どうすりゃああなれるんだよ、ちくしょ-って思っているメンバーがたくさんいる。

そういう中では指原莉乃というビジネスモデルは注目に値する。

だけれども、それでもそれは AKB という世界の中でだけ通用するのではないか、AKB から出たら魔法が消えたシンデレラに戻るんじゃないか。そういう不安とも戦っているんだろう。

魔法の消えるまで。

未来編でカプセルから出た瞬間に溶けてしまう培養生物のようだ。とすると、彼女たちの本能は AKB という国からどうやって外に出ようかとチャンスを伺っているのかも知れない。

ならば彼女たちは基本的に蛹の姿でいる。蝶となったとき、もうそこに居ることはかなわない。
最近、あごがタプリンじゃないのと、バイトルのCMを見ながら、彼女たちの巨大な集金マシーンとしての存在はすごいと感心している。



そこに多くのお金が動きながら、その主人公たちである彼女らには、それに見合うだけの支払いはされていないだろうと思う。それでも彼女たちが人生のすべてをぶつけるだけの価値があるに違いないのがAKBであろう。

AKBという世界観を作っている人たちにとって、彼女たちが輝くのは AKB という世界があるからだという事を知っている。AKB という世界の中でだけ成立する公式がそこにある。ここは一種の魔法の国である。

魔法の国とは境界線を持つ事にあるだろう。あるラインを超えれば、そこから違う法則が成立する。それはディズニーランドもそうである。あの敷地に入った瞬間から世界が変わる。

そういう世界というのは例えば昔ならば茶屋だったかも知れないし、教会というものもそうであったろうか。吉原も同様であったろうか。それをこの世界にもたらした AKB も同様の類だ。

だから AKB から現実の世界に戻った人たちの生き方は厳しい。というか女優としての生き方しか残っていないようである。そういう意味では前田敦子はよい女優になったものだ。ソープ嬢役がとてもよく似合う。

いずれにしろ、トップを取ろうが、二位を取ろうが、その後の人生にはあまり大きな影響はない。AKB を辞めた(または解散した)時から、そんな名誉など役に立たない程度のものである。

もちろん、それは外の世界だからである。こちらの世界ではただの紙切れが、魔法の世界では無敵の魔法陣として活躍することはよくある。

この閉じられた世界での戦いが、どうやら日本人は大好きである。

アメリカンアイドルのような審査ものも日本にはあったが AKB とは次元が違う。歌が巧いだのルックスが魅力的だの、そんな事で AKB のトップが取れるなら、こんなに簡単な話はない。

熾烈な技術競争などないように見えるが、本当に強烈な戦いというのは AKB の側にこそある。

何故なら AKB には不思議の勝ちと言うものがある。野村克也が言う「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」である。

ともかく我々は勝負の行方と言うものが大好きである。どうして勝ったか、どうして負けたのかという分析よりも好きであるが、それは一部に過ぎない。我々はどういう風にする者が勝つのか、どういう者が負けるのか。そこに何等かの法則があるようである。それを各々が見出そうとするのがとても大好きなのである。

勝利には法則がある。その法則は誰も知らないが、その法則に近づく事が勝利を手にする近道である。そのためには少なくとも勝っている人間の近くで観察することだ。激しい戦いに勝利した者は少なくともその法則を体現しているはずである。

囲碁に敗着というものがある。敗着とは、少なくともこれ以降、勝つ手がないことを言う。だから、その手を打たなかったからと言って、勝てたというものではない。

勝利には誰もが貪欲である。だが、そこに勝利の法則がある。それが何か。少なくとも指原にはあって、まゆゆにはない何かがある。その正体とは。

恐らくそれは考えても分からない。分かったとしてもそれが出来るとは限らない。であるならば、勝利の法則を欲するのは、単に己が勝つためだけではない。自分が勝利者でないとしても、少なくとも勝つ側に付く、これが日本人の行動原理と言えるだろう。

多くの武将は徳川についた。それはそれで結果的に正しかったのだが、小早川の裏切りがなければ家康が負けていたかも知れなかった。そんなことは分からない。

だが、勝利することの至上さと比べれば、裏切りなど些細な話である。もちろん、戦後に小早川が冷遇されたという話はない。本家の毛利家(西軍)を超えるだけの石高が加増されている。それだけその働きは評価されていたのである。

正義も幸福もあなたにあげる、だけど勝利だけは譲れない。

そういう戦いがこの選挙にはある。すると、誰がトップに立つのかなど、氷山の一角に過ぎないことが分かってくる。この結果が示すことは、多くの人々がどのように流れていったのか、その潮目こそが重要である、という事になろう。

人々がどう動くのか、この戦いにおいて。何故そのような流れが出来上がったのか。これがビッグデータというやつである。流動性を見極める、水の流れを読むことが泳ぐ人には重要。

流れに乗る、潮目に逆らわない。これを知るのにどうすればいいか。多くの人々の動きなどそう簡単には知りようがない。元来、それを知るひとつが新聞やテレビの報道であった。

そういう時には、人々の流れではなく、流れの中に浮かんでいるブイのようなものに着目すればいい。波がどういう動きかは漂流物を見ればいい。広い海の上に浮かんだそういう人々がいる。

AKB はみんなそういう存在だ。誰が一位を取るかではなく、誰が選ばれるか。そこにいる指原という個人ではなく、指原を選んだ人々の行動原理にこそ人々は興味があるのである。

その流れとは何か。その流れが生まれる理由とは何か。山本平七のいう空気というものも、この流れを知る指標生物のひとつに過ぎない。なぜ指原はその動きの頂点に立てたのか。彼女のなにが人々のその流れを引き寄せることが出来たのか。指原莉乃とは AKB の示準化石である。

そして今日の日は終わり、彼女たちの活動が、また明日から始まる。道を決める人、残っている人、彼女たちの物語の中に勝利の法則がある。

我々は、それを教えて欲しいのだ。勝つためには何が必要か。運というようなものに結論づけたくない。勝利者だってなぜ一位かは分からないであろう。

だから、参考までにどういう考え方をしているか教えてよ、と誰もが聞く。彼女の言う通りのことをやって上手くいくなどと誰も思っていないだろうが、そこに何かヒントはないかと彷徨っているわけである。

これが彼女たちの神話である。
歌丸さんの引退と、六代目の初回だけは見た。

思えば、笑点というのは、本当に誰もが見ておかしみを感じられる番組だと思う。謂わば、日本のお笑いのど真ん中、王道にいる。

全てのお笑い番組は、笑点を基準とした違う何かである。

それは、話題の方向であったり、毒気の強さだったり、ナンセンスさだったり。こういう言い方もできるだろう、日本のお笑いのすべては笑点の中にある。後はそれをどう加工したかという応用の問題であると。

と考えてみると、あの生ぬるさの正体が見えてくる気がする。あれだけの、雰囲気を作るために、演者たちがどれだけ人生を賭して毒気を薄めていったか。

あの人たちだって、舞台を降りれば、強烈な個性と、辛辣さ、強い思いをもっているだろう。それなのに、沸騰した落語への思いも、若いときから培ってきた長い勉強の糧も、舞台の上ではすっぱりと落ちたような体でいる。

その境地が笑点の恐ろしさか。あの舞台の上で作り上げているものは、決してなまくらなお笑いではないように思える。

だから、僕はこの番組は見なくてもいい。今も毎週日曜日に続いていさえすればそれで十分だ。今は見なくても済ませられる視聴者の一人である。笑点は見なくても、そこから派生した他の番組を見ているのだから。

久しぶりに見ると、楽太郎の司会などあり得ぬと得心した。笑点の一番バッターは円楽じゃないか。あの人がお題に対する基準点になっている。

それは社会的風刺もそうだし、演者どうしの人間関係や腹黒さなども、どれもこれもそうなのだ。そのどれもこれもが、いい塩梅で薄められた毒気と温度になっている、その凄さ。これが芸か。

笑点の基準点を作る代わりなど、どこにもいない。はっきりとした円楽という基準点があるから、他の人の違いが強調できるし、ひとりふたりこけたり、舞台が荒れたり、発散したときも、彼が話すことで、また基準点に戻すことができる。

時に自ら、悪ふざけできるのも、信頼関係があるからだろう。

ここにあるのは、すごい構造である。そして、その構造の上で昇太の人の良さ(あの人だって、笑点の舞台を降りれば、芸の鬼のような顔をした人に違いない)がとっても司会に良く似合っていた。

マ・クベがあと10年戦えると言った数か月にジオンは講和したし、100年はもつと大臣が言った年金は10年もせずに破綻まっしぐらである。

だが、笑点のそれは間違いあるまい。あと100年とは言わないが、昇太が司会を続け、円楽が健在な間は笑点の面白さは揺るぎまい。
構造というのは、建築的なイメージで言っているのですが、何が何を支えているのか、ということ。キャラクターというのは単独では成立しない。キャラクターっていうのは正確に言えば三角形で成立するもの。それを僕は構造と呼んでいる。概念としてはわかりづらいかもしれないですが、実践的にものを考えていく上では必要なこと

監督をやっていても構造を持っている人はほとんどいない。私に言わせれば、宮さんは構造がない典型。宮さんの作品はいつも行き当たりばったりで、願望だけで作られている。でも願望やあこがれ、ロマンチックな要素、思い入れを排除したところに出現するのが、いわゆる構造というもの。これは語り出すと本を1冊書けるくらいの内容になるんだけどね…


宮崎駿の作品に構造がないと言うのは、たぶん嘘で、彼の作品にも構造はある。ただ、それを水の流れのように変幻にするから、最初の構造は容易く消えてしまう場合があるわけだ。

一方で、押井守の作品には構造的なものの枠組みが魅力のひとつかも知れないが、それが故に、作品としての爆発的な(出鱈目な)面白みを生み出すのが難しいという構造的理由を持っているようだ。

構造からの解放を作品中に表出することが潔しとしない。例えば、そこで崖の上から飛び降りれば感動するじゃん、というのを明確に拒絶する。そうではない。そんな感動ならいらない。それが彼の制約なのだろう。

崖の上から飛び出すのはもうあたる一人で十分だ。おれは崖の上に留まるキャラクターを描きたいのだ、そこでしか存在しえない何か人間らしさみたいなものを。

と言う主張があるのかないのかは知らない。だが押井守の作品は、それ故に詰まらないものも多い。その面白さを味わうにはとても難しい場所で立ち止まっている。

この人の最高傑作って何かな?少なくとも、次に作る作品です、と断言するほどのファンではないかもなあ。
満島ひかりが恋多き女かどうかは知らない。もちろん、若者喰いが演技の足しになどなるはずがない。若さを保つためにと若いエキスをちゅうちゅう吸う絵の方が幾らか説得力があるわけである。



しかし、最近の女優はどうも売れたら若者に走るらしいのである。

彼女はルナルナのCMから脚光を浴びたと言っても過言ではない。その頃には既に結婚していた。

それ以前の彼女の演技と言っても、園子温程度に狂気と呼ばされる程度の演技だから、まぁ、そこには全力で頑張った以上の意味はない。

実際、彼女は演技の力ではなく、ルナルナのCMでのかわいさ。それも幼さの残るかわいさではなく、妙齢のかわいさで売れたのである。



すると、俄然と興味は、彼女は売れることで、彼女のいったい何が、自分の夫にダメ出しをすることになったのか、という一点に集中するのである。もちろん石井裕也という人がどういう映画を作ったのかは全く知らない。

しかし、彼の映画に出演したのをきっかけに結婚した以上、その才能に惹かれたのは間違いあるまい。当然そこには、約束の地があった。それは女優としての活躍の場である。

しかし、こいつが思った以上に、たいした監督ではなかった。

それでも彼女がアングラの小さな場所で女優として生きて行くには十分であったろう。それで彼女は十分に満足であったろう。そう、あの時までは。

たしか彼女は反原発の行進にも夫と参加したと書いてあった気がする。社会にも関心が深い、仲の良い夫婦というイメージである。それで彼女は十分に幸せであった。そう、あの時までは。

彼女は売れてしまった。というか、業界が彼女に気づいてしまった。世界が広がったのである。彼女の世界は一気に広がったであろう。出会う人も、才能も、情熱も、新しいステージに彼女は登ってゆく。

その時、彼女は今までの自分の見る目に愕然としただろう。昨日までは素晴らしいと思っていた監督の才能が、今では陳腐に見える。自分は映画というものが何も分かっていなかったのだ。

そう意識した時、彼女の中には、もう後戻りできない何かがあったのである。そこにあったのはどうしようもない陳腐さであったろうか。彼女の中には後戻りできない自尊心が芽生えていた。昔の自分が浅く感じられたであろうか。

だが、決して口には出せない。そこにあったのは、つまりは打算。自分の打算をこの程度の男に託してしまったという恥辱。

二人の関係は、夫の映画に売れない妻が出るという関係性の中でのみ価値があった。その関係性が崩れれば、当然だが、結び合ったふたりが別々の運動を始めるのは単純だが自明な運動であろう。

そして孤独になった彼女の心を埋めるものは周囲に幾らでもあったのである。もう、誰にも頼らなくてもいい。怯えなくていい。若い人が自分の中の打算を消し去ってくれる。それが明日を生きる活力になる。

もちろん、彼女には深刻な問題ではない。満潮はいつか終わり潮が引き始めると言う事は。

という補助線を満島ひかりに引くならば、吉田羊にも売れる前から支え合ってきた人がいたんじゃなかろうか、という気がしてくる。それが HERO へ出演したことで爆発的に売れてしまう。長い下積みの間に築いてきたふたりの関係がある日を境に崩れてしまった。

相手が黙って彼女のもとから去ってゆこうとする。それを彼女は見ているしかない。家を出ていった後、寂しくなった部屋で泣き崩れる日があったに違いない。

という訳で妄想はこれで全てです。しかしこのような妄想の起爆剤となるから彼女たち女優はとても素敵です。
女優にとって結婚というのはイメージを作る重要なイベントである。特に演技で勝負できない女優にとって、それは活動の場を広げる絶好のチャンスなのである。

もちろん、結婚は諸刃である。新しいイメージの獲得と従来のイメージの損失がある。当然だが、堀北真希は結婚相手の詰まらなさでイメージが失墜したひとりと言える。

こんな男を選ぶ彼女の底などたかが知れている、彼女の花は散ったのだ。そういうファンの勝手な嫉妬もあれば、いや、これなら離婚は当然の帰結である。離婚するまで待っているよ、という異常なファン心理もあるだろう。当然ながら、事件、事故の匂いプンプンで集まってくるタブロイドの人たちもいるだろう。

もちろんこれはイメージである。実際のところ、彼女の実生活がどうであるかなど知らない。こちらとしては芸能実話を読む気さえないのである。

結婚相手が女優に与える影響は計り知れぬほと大きい。特に最近は結婚相手として社長という肩書を聞かなくなってきた。それも当然で落ち目のタレントと結婚するどこぞの社長など、女優からすれば、引退後の老後の保険代わりに男を選んだな、というイメージしか持たれないからである。打算的というイメージは女優の幅を限定的にする。

それ以前では、若手のイケイケの俳優と結婚するケースが多かった。あたかも一番旬な所を獲得したという感じであったが、イケイケの俳優=ドラッグという図式しか生まれず、そうすると彼女からもドラッグ疑惑は消えようがないのである。

お前やっただろ、という酒井法子にはならなくても、やった可能性がゼロとは言えない。という疑惑は残るし、それ以前の問題としてそういう男しか選べなかった女だよな、というレッテルはどうやっても剥がしようがない。

なあ、そうだよな、宮崎あおい、矢田亜希子(敬称略)。

だから最近は一般男性としか報じない。といっても相手の特定など得意な連中だから隠せおおせるものではない。相武紗季の結婚相手も会社経営だそうである。それでも会社社長と言わないのが奥ゆかしさか。ま、芸能人と結婚する社長にろくな奴は僅少である。

結婚して暫く見ないなあと思ったら、また急にテレビに出だすようになって、ありゃー、こりゃ離婚まぢかかなぁーと思ってしまう上戸彩がいたり、これだけテレビに出てるけど、子供とはちゃんと過ごしているんだろうか、あと10年もすれば、子供がドラッグで捕まってセレブリティな話題を提供して、また話題作りする気じゃないのか、と勝手に思い込んでいる広末涼子がいる。

女優という存在位置とCMの関係では、年代ごとに彼女らに求められているものがある。それはたぶんに日本社会が持っている家族というイメージと関係している。と、同時にその中に性的な存在としての女性も要求されるわけで、その二つを基調として日本の女優は成立していると思われるわけである。

とすれば、全ての女優はその二項を応用したなんらかの方程式として存在する、と言えそうである。つまりどういう独自性があるかと言うのは、方程式の中にどのような新しい演算を加えたかという視点で見るべきであろう。

子供の認知がどうのこうので話題を作ったデーモン小暮などを見れば明白であるが、、とかく、家族というイメージは彼/彼女らの生き方そのものに直結して見えてしまうのでとても重要なのである。

そう、相武紗季の話に戻ろう。

相武紗季、齢30にして結婚。既に10代の輝きが取り戻せるわけもなく、その頃に輝いていた彼女の中の幼児性というものも、さすがに30前にもなれば、気持ち悪い。

だから彼女は、彼女の中にある子供らしさを、コミカルさに変換しようとしてきた。それが彼女の20後半の芸能活動と言えるだろう。

彼女の活動で特に致命的だったのが、ナレーションが上手くいかなかったことだ。声そのものが悪いわけではないのに、どうも、いまいちなのである。もう少し、時間が経てば魅力的になるのだろうか。

いずれにしろ、今はダメという事で、彼女は演技でやってゆくしかなかった。それだってずうっとコミカルさだけで勝負出来る訳ではない。30を超えればかわいいが痛いになるのは目に見えている。

そこで、彼女が持っているコミカルな面白さをこれからもうまく使う方法がないか。それがあったのである。例えば、子供と遊ぶ姿。そこにコミカルさがあると、とても魅力的でかわいいお母さんという感じがするはずである。

そういうイメージのためには結婚は絶対に欠かせないアイテムである。ドラゴンクエストでいえば、ロトのしるしみたいなものか。彼女のこれまでの演技には感動どころか、チャンネルを変える手を止める気さえ起きなかったが、それでも彼女が件名に悪女になろうとしたり、何かを訴えようとする表情は記憶に残っているのである。

それに彼女が登場するCMはとても好きだ。何より、彼女は圧倒的とは言えない存在感の中で何度も試行錯誤を繰り返している印象である。とてもクレバーな女優であろう。そのもがき方が魅力なのである。

彼女が次にどういうイメージを作り上げようとするのか、ともあれ彼女の結婚はとてもすばらしい契機である。もちろん、これをきっかけに女優という職業を捨てる可能性もある。

彼女のひととなりはとても前向きで明るい。もちろん、これは全くの空想なのであるが、どのような道を歩むとすれ、彼女の未来が前向きで明るければいい。