アニメのブームを歴史として見るのは、それをよく知らない人に教えるには都合のいい方法かもしれない。ちょうど世界史を教えるのに戦争をメインイベントとして語るが如く。

現在は第四次アニメブームだそうである。それらを知っておくほうがアニメの歴史を俯瞰で学べるという話であろう。たかがアニメでそんな事をする意味があるのかという話もあろうが。

ブームというものを考えるとき、何をもってブームとするのか。放送数と視聴率、話題性(マスメディアに取り上げられた回数、大きさ)、専門誌の数量などがひとつの指針になる。

しかし、これらはデータを分析したいという謂わば AI が得意とする仕事である、と言ってもよく、ビッグデータといい統計データといい、人々の流れの中から何か着目に値するものはないかと探す話であって、その意味するところは普通に見ていては気づかない何かに気づくというとても面白い話であって、そういう意味では、単にブームという切り口だけではふつう過ぎて面白くもなんともない。そもそも論で言えばアニメブームには果たして語って面白い話題があるのだろうか、という話である。

ブームには大勢の人が動いた。ヤマト1977劇場版が放送されたとき、前日から徹夜で並ぶ若者がたくさんいた。映画の時間が繰り上げられるわけでもない、入りきれなくなるという予測があったわけでもない。にも関わらずである。なぜヤマト劇場版に人々は徹夜したのか?

ただ、彼/彼女らは、誰よりも待ち遠しかったからである。そんな単純な勢いが熱量をもって彼らを動かした。彼らが並んだ時が、その時、歴史が動いた。というやつである。

アニメのブームというものに奇異性が観測されるとしたら、何度ブームがこようともサブカルチャーから一歩も外に出せてもらえなかった点だろう。手塚治虫や永井豪の作家性は、大衆作家はおろか、純文学、例えば川端康成でさえ凌駕していると、アニメ好きが述べたとき、仲間内は、それをキラキラとした目をしながらうなずき、それを聞く隣の席の人は、馬鹿がいらあと奇異の目で見ている。

何度ブームが来ても、そういう断絶があった、ということがアニメブームの面白さであって、それを支え続けた人たちは、もうそんなことは百は承知でアニメの価値を握りしめたという話である。そのブームに一番驚いたのは、おそらく送り手である作家や、出版社であろう。サブカルチャーなどと堂々と語る批評家などアニメの何が理解できているはずもない。この国のメインストリートがアニメである。それを裏道と見誤っているのだもの。

なんだ、この動きは、というのは今も変わっていない。多くのマスメディアにとっては漫画とは未だに奇異の目でみる価値観しかないのだ。そこに何かがあると思う人もいれば、これしかない、と思う人は、奇特な理解できない社会層であるのだ。そう。彼らの幻想の中では。

いずれにしろ、ブームになった時にはもう遅いのである。それは The Start Of The End に過ぎない。ならば、ブームを語るならば、その少し前に着目すべきと思ってしまう。

カンブリア大爆発に注目しているようでは決して見えてこないものがあるのだ。その少し前に起きた全球大凍結であったり、エディアカラこそ何かがあるのではないか。

宇宙戦艦ヤマトは起爆剤であったが、それはコップの水を最後にあふれさせた作品に過ぎない。それまでコップに水を汲み続けた作品群がある。そしてそれらが一つの到達点に達していたのだ。

多くの人が、もうこれ以上のものはない、と感じた時に、初めてそれを打ち破るものが登場する。つまり、宇宙戦艦ヤマトは古い扉を閉じ、新しい扉をノックした作品であるともいえる。

ならばその前にひとつ前に完成を見せた作品は何であったか。これ以上はもうない、と感じた作品は何であったか。

例えば戦争という点では「決断」がある。だが、これはおじさんしか登場しない。ロボットものでは「マジンガーZ」があった。これも優れた作品であったが、子供向けの域を出なかった。ガッチャマンであれ、エースをねらえであれ、どれも優れた若者向けの作品であった。

こういう作品群がアニメを見る人の目を鍛えたという点は指摘しすぎるという事はない。その時代の子供たちはミケランジェロも北斎も知らなかったが、日本絵画史上、もっとも多くの才能に触れた世代である、という点は間違いない。

優れたデザイナー、アニメータたちの才能を毎日テレビから浴びるようにして育った世代が、それは量、質ともに圧倒的なのである。そういう美的感覚に鍛えられた目が、ヤマトに結実していったと言っても過言ではない。

ヤマトのひとつ前のある宇宙を舞台とするSFは「セロテスター」であったが、これと比べてヤマトの方が圧倒的に優れていた点などひとつもない。設定にしろ、絵にしろ、ゼロテスターが劣っていたという話は聞かない。

だが、ゼロテスターにはなくて、ヤマトにはあるものがあった。それは時代の運ではなかったように思う。

漠然とではあるが、それは大きさへの実感ではないか。ヤマトだけが大きさに対する感覚が群を抜いてリアルなのである。それが、若者という感覚と合致したのはないだろうか。

そのあとに続くガンダムやエヴァンゲリオンという次にアニメブームへと至る流れがある。いつの時代にも、大きさへの感覚がブームを切り広げてゆく。その度にリアリティを刷新してゆく。どのブームも新しいリアリティを生み出していっただけである。

どうでもいい漫画物語の中にも本当のリアリティがあると感じた人々がいる。その中にあるものこそ信じていいリアリティであると感じた人たちがいる。
 
アニメの世界にも多数の河が流れている。その大本流にギブリがあり、それとは別の流れが幾重にもある。アニメに携わるすべての作家たちは河である。僕の知らない水たまりのような人もいれば、宮崎駿のような大河までたくさんある。

ブームというものは、それらの河が氾濫したと考えるべきではない。その水を求めて、市場が立ち、街ができたと見るべきだろう。様々な河の近くにたくさんの町が生まれる。それは文明が誕生したのと同じように。アニメという世界でも。

という話と比べれば、第四次アニメブームが何年から始まろうが知ったこっちゃない。
投票でベスト100を決めるのなら、そこには必ず時代というエフェクトが入る。

簡単に言えば、近いものは記憶に新しい、古いものは忘れかけている、そして何歳で見たかという印象の残り方(トラウマとも言う)。全く同じ作品でも10歳で見た人と50歳で見た人では印象がまるで異なる。

だから投票によって明らかになるものは、もちろん現在の意識に過ぎず、かつその対象は無作為集団とは言えないので、その結果は統計データとも呼べない。ただアニメーションが好きで、投票行動を行う人たちの中で、もっとも多数の意見を獲得したという意味である。

多くの場合、そのような結果が意味するものは、誰にとっても調度よく薄められたものである、という真理であろう。キリスト教だって、キリストの言葉を使徒や教会によって、丁度よく薄められたからこれだけ広まったと言えるのである。キリストという劇薬に直接触れたものは、まともでは居られなかったのであるから。

日本アニメーションを語るとき、海の神兵やくもとちゅうりっぷを外すわけにはいかない。しかし僕たちはこれらの作品が持つ歴史的価値と、その時代背景に感動しているかも知れず、作品そのものが持つ価値とは何も関係ないもので興奮しているのかも知れない、という疑問は持っておくべきだろう。

同時代のディズニーと比べても見劣りする作品と言ってしまえるかも知れない。すると、こういう言い方ができるだろう。この世界に残存したあらゆる作品に価値がないと言えるようなものはないと。

するとベスト100という言い方そのものが既に不遜であって、そのベストが関係するのは作品ではない。おそらくビジネスというものにおける価値という意味である。

別にビジネスが悪いというわけではない。ただベスト100というような事をするのは、ビジネス的に価値の高そうな作品を探すための市場調査という程度の意味しかない、という見方の方が正しいだろうと思うだけである。

と、そんな下らない話がしたいのではないのである。みんな聞いておくれよ。

ちょっとしたきっかけで聞いてしまったのが「世界名作劇場 若草物語 ナンとジョー先生」。カルピス劇場「フランダースの犬」の系譜を受け継ぐ作品。見たことないけど。

だけど、OP, ED がいい。抜群にいい。優れた OP,ED を持つ作品はたいていが B 級、という法則の通りかどうかは知らないけど、音楽は素敵。

まずは聞いてみてから。

 
どう?
 
「明日もお天気」小坂明子。そのサビ。
きっときっと見つけてね、未来のファンタジー
すてき!
 
そして ED もまた優れもの。
 
「青空のDing Dong 」。伊藤薫。
夢と勇気と元気があふれて、さあDingDong DingDong、チャペルの鐘に

なんてさわかな声だろうと思ったそこのあなた。今すぐググりたまへ

ひげをはやした小太りのおっさんが見つかるだろう。これを感動と呼ばずして何を感動と呼ぶか。

知らないって怖いと思ったそこのあなた、その通り。この人は、ほほにキスして、Love is over や far away の作曲家だったりする。

エヴァンゲリオンではないが、この感動を君に、である。
 
 
 

日本のドラマにしてはめずらしく、新垣結衣のドラマはわりと見てきた。

 

マイ☆ボス マイ☆ヒーローは面白かった、空飛ぶ広報室はドラマとしてはベストの類だと思っている。

 

そんなわけで彼女の始まりから、現在まで見てきたと思うが、演技にはきついものがある。

 

ほとんどの役柄が、頑張っている新人、力がなくて悩んでいる人、という役柄ばかりなのである。未熟者が周囲の助けを得て頑張ってゆくというストーリーは典型的である。

 

「くちびるに歌を」でも同じような役柄だったが、なんぜもっと未熟な生徒たちが登場するもんで、まったくパリッとしなかった印象がある。所詮は彼女には生徒とやり取りする役柄は無理だったのである。ロビンウィリアムズの「いまを生きる」とはえらい違いである。

 

もちろん20台はそれでもいい。彼女の真価はそんな所にはないことは、生き恥で証明された。

 

同世代の注目すべき女優には、真田丸で特異な配役を演じた長澤まさみがいる。大河ドラマの中で、異質の存在ながら、作品全体にリズムを与えたり、流れに抑揚をつける役どころを要求され彼女なりの個性で応えた。

 

石原さとみはゴジラの中で、賛否両論あるが、印象深いことだけは疑いようがない。作品の中で立派な存在感を示したことは間違いない。

 

彼女たちにも、それしか演じられないのではないか、という話もあるが、それでも彼女たちはいろいろなものと戦っている。

 

なによりも彼女たちは顔の変化と向き合わなくてはならない。大変だろうよという気がする。それにどう対処するかは三者三様だ。

 

石原さとみがゴジラで浮いた役柄で見事に存在感を示した事と比べても、新垣結衣の映画は小ぶりな印象しかない。

 

だがそういう役柄を除けば、今回のぼさぼさの髪というのは、ちょっといい感じだ。いやちょっとではないか。すごくいい。当然だがエンディングの踊りが最高に魅力的だ。

 

この圧倒さはどこから来ているのかという話だ。2016 年の No1 を選ぶなら、やはり新垣結衣になってしまうのである。

 

振付はMIKIKO。知らないけどこの人の凄さが突出しているような気さえする。なんか幼稚園のお遊戯かという感じさえするのに、きっと踊りとしては難しいんだ。

 

なぜ彼女はあそこで踊っているのか、と深読みすれば、あれは彼女のプライベートビデオだという気がする。役柄で踊っているのではない。そこにいるのは正真正銘の新垣結衣だ。魅力的であることが彼女の正義だ。

 

日本の踊りと言えば、能だの歌舞伎だが伝統である。御国の時代には、あれがとっても魅力的だったわけだ。それが明治になって西洋の踊りが伝わると次第に芸術色を帯びてくる。高度でハイレベルな技術が求められてくる。圧倒的な才能だったり、身体能力に驚くのがダンスというものになってきた。

 

そこに、脱力系というか、楽しんで踊る、楽舞と呼ぶべきものが登場してきた。だとすれば、あの踊りの魅力は振り付けた人たちの、思想であったり、そこに込めた創造性というものに、実は驚いているのかもしれない。

 

日本人の芸術観は、明治以降にがらりと変わった。それまでの面白みとか可笑しみは失われ、背広を着た堅物のようなものに遷移している。明治以降の絵画には何かしらの緊張感が溢れている。

 

構図にしても1mmもずれてはいけないような探求性、ラインを探し出そうとする意志が感じられる。江戸時代みたいに手が勝手に動いたような自由気儘さはない。狙いに狙い、計算しつくして決めたような緊張感だ。

 

それとはまったく違う魅力を新垣結衣が醸し出している。その魅力は何か。

 

新垣結衣は恥じらいの女優である。

 

これに尽きる。それだけは他のどの女優よりも圧倒的なのである。ライトノベルでいう所の Over S 級である。

 

恥じらいの力はとても強い。風俗であれ、恥じらいがある嬢は素敵だ。AVも同じだ。だがタレントではこの能力は使いにくい。女優であればこそ強力な武器になるのだ。

 

と言うことは、この恥じらいの力が彼女の年齢によってどう変わってゆくかが見どころと言う事になる。それはとりもなおさず彼女が年齢とどう向き合ってゆくかと等値であろう。

 

 

流行語、流行語というが、一年前に何が起きていたか。記憶がもう怪しい。既に一年を振り返るのがそぐわないのではないか。

 

時間の経過が早いのは大人になったらからではあるまい。今のサイクルの速さは、決して記憶力が低下したからでもあるまい。


一年前の冬に何があったかなど、遠い遠い過去である。春の出来事も過ぎ去った感じしかしない。この断絶感は何だろう?

過去の連続としての自分よりも、何もかも通り過ぎて、終わった事のように感じられる。

だが、それは当たり前である。ベッキーがどうなろうと、SMAPがどうなろうと、そりゃどうでもいい話なのだ。流行語に目新しさがないと言うよりも、所詮は他人事よね、と気付き始めただけではないか?

インターネットの普及によって、言葉はより増幅するようになった。しかし、それはただ振幅が大きくなっただけで、波長が長くなったというわけではない。

逆に波長そのものは短くなった気がする。一年の間に起きる波の数は増えている。波の数が多くなれば忘れられるのも当然である。

これまでは一年を12の波として振り返ればよかった。それが、週単位、54回の波に変わった。月刊誌の感想から週刊誌の感想を求められているようなものだ、そりゃ、記憶が薄いのも理である。

気に入った単行本を買うように、ある事件を振り返る時には、ただひとつの話題ではなく、その話題がその後にどのように推移していったかを知りたい。そういう欲求が強まるだろう。

流行語大賞という切り取り方が時代遅れになった。我々は過去を振り返るのにもっと深く長く見つめたいという事が始まったのだろう。

 

必要なのは、流行語ではない。ある話題について、その後どう遍歴していったか、それが知りたいのである。


ただ過去を振り返るのでなく、ひとつの歴史として、過去に戻ってみたり、その後どうなったかを放送するテレビ番組が増えたように見える。

これらは同じ流れにある。時間の粒度が細かくなってきた事と無関係とは思えない。

 

ハリウッドにも負けないなんて言えるなんて、よほど、頭がおかしいか、さえない詐欺師か、でなければ、現実が見えていない無能な人なんだろう。

 

ハリウッドのヒーローものが、どのような改良を重ねて今の段階に来たのか。その中でヒーローものと言いながら、深いテーマを投げかけ、どうやってエンターテイメントとの折り合いをつけてきたのか。

 

そういうものを想像するわずかな脳細胞が活性しているならば、ハリウッドなどという言葉が出てくるはずがない。

 

この国を覆う気違いじみた善良さだの、道徳だのというものから脱却せずにまともなヒーローものが描けるとは思えない。

 

馬鹿である。圧倒的な馬鹿なのである。邦画を作っている人たちは。だから、優れた脚本が生まれない。

 

え、そんなの実際の警察だってもっとうまくやれるよ、必要なら自衛隊投入すればいいじゃないか。

 

ヒーローものを作る時に、この考えが真っ先に浮かばなければならない。なぜ警察では対抗できないのか、自衛隊では対処できない理由はなにか。それが、このヒーローならば何故可能なのか。

 

このリアリティをしっかりと作り込まなければ映画としては成立しない。これを成立させるものは様々であって、科学的にしっかりと設定を作りこむ事も出来るし、映画としてのお約束で認めてもらう事もできる。

 

だが、日本のように、子供を襲う悪の組織が、しかも、誘拐して人身売買するわけでもなければ、兵士として育てるわけでもない。

 

その程度で悪の組織だって、子供だましもいい加減にしろとしか思えない。もちろん、子供が見るならそれでもいい場合もある。わざわざゴリラの密猟シーンを投入する必要もないだろう。ほとんど多くの場合は。

 

だが、お前ら製作者は大人だろ。現実のニュースを見ろ。その作品を喜んで見るのが例え子供たちだとしても。

 

世界で起きている出来事をしっかりと踏まえた上で、それでもヒーローとはなんぞや、それでもヒーローという作品を作りたい。そこから始まる作品でなければ、バカバカしい話である。

 

で、今回もそんな期待が出来るわけがない。拳法の練習を積んだ?格闘技だと?

 

馬鹿が。そんなヒーローなんざ自衛隊のライフルにあまたでも撃たれて死ね、としか言えない。拳銃に拳法が対抗できると思っているのか。頭がおかしい。

 

自衛隊の10式戦車くらいとは対抗できるんだよね?その拳法とやらで。富士演習場で実物見てこい、としか思わない。

 

どうやら話は警察関係らしい。ポリマーは探偵である。探偵にも幾つかのパターンがある。破裏拳ポリマーがどういう事件に取り組むかは知らないが、所で、その圧倒的なスーツは当然、なんらかの法的な許可はもらっているんだよね。作中で。

 

当然ながらそのスーツを採用した特殊部隊を警察組織はもっているんだよね?

 

そういう細かい設定を詰めていって初めて作品は息吹を持ち得るんだと思う。そういう世界観の造成が、端々のセリフにまで影響を与えるんだと思う。

 

それが出来ていないなら全く見る必要がない。子供が砂場で話しているヒーローごっこの設定でも聞いている方よっぽどましである。

これは価値のある戦いであった。そして、勝敗は決した。

きっと両者とももう一度やっても勝敗は分からないと言うだろう。その一度きりの戦いの仔細は知らないし、理解できる訳もないのだけれど。

恐らく囲碁ももうじき強い、弱いという価値判断では測れなくなる。所詮はAIにも勝てない人間どもの戯言になるから。

マラソンの速い、遅いというのは確かに金メダルの価値がある。しかし、手紙を出すときに金メダリストにお願いすることはあるまい。郵便局のほうがずっと早く、そして安く配達してくれる。

メロスはあの時代だから感動するのであって、現代なら携帯電話で5分もあれば終わる話である。車で行って帰れば済む話である。

だから速さに価値があるわけではなく。おそらく、面白さにこそ価値がある。

プロの価値は面白さにある。道を究めたいと思うなら、アマチュアとして研究すべきだ。そういう時代が来る。

もちろん、そうなると面白さの再定義が必要だ。従来は常人には思いつかない妙手や鬼手というものが面白さのひとつの価値であった。一方で、いぶし銀と呼ばれる地味だが味のある棋士もいた。

それを理解するには鑑賞者の側にも高い能力が要求されたのである。その手の凄さというものを理解するには、同じくらい高みを見渡せるたけの高さが必要なのである。

だが、オリンピックの選手がどれだけの集中力と我々には理解できないほんの数ミリの、時間にして0.1秒のタイミングの差の中に千も万もの違いを、彼らには明瞭な違いであろうが、見出すにしても、僕にはその詳細は分からない。

それがどういう成功となって、プレイとなって結実するかと言う事でしか分からない。その凄さは、おそらく鑑賞するだけでは足りない。

つまりプロフェッショナルの定義とは、優れた解説者が存在しているという点に至るはずである。

幾ら AI が強くてもその手の意味が理解できなければ、それはただの箱である。数学者がどれだけ立派な論文を書こうが、理解する人間がいなければ、ただの紙である。

理解するものがいる。このことの価値は人間にとって大きいと思える。

そして、棋士とは相手に打ち勝つことでしか相手を理解できない人種のはずである。7冠という孤独に対して、それを理解する人物が出現した。そういう戦いであったろうかと思うわけである。

この勝利の価値はたぶん、我々には本当の所は分からない。もしかしたら対戦者同士でさえ分かりきるなんて出来ないのかも知れない。

だが、それでも素晴らしい。この勝利も敗北も同じように素晴らしい。プロフェッショナルとは敗北で金が取れる人たちの事である。

勝利で金を取るなどアマチュアでもできる。

 

2016/10/21
○井山裕太

●一力遼

井山裕太は、もう7冠したから、当然だけど悪者である。北斗の拳なら、ラオウだし、銀英伝ならラインハルト。リングにかけろなら剣崎だし、聖闘士星矢なら、教皇である。ハイネルであり、リヒテルである。バンコランであり、キースアニアンである。コンピュータ8号でもいいや。

もう基本憎まれ役でいいのである。圧倒的に強い人はライバルになると決まっているのである。もう関拳児である。主人公が立ち向かう強さを兼ね備えなければ面白くなりようがない。それが優れた作品の必須条件であろう。

名人戦では高尾紳路が、三勝まで迫っている。これは、イデオンでいえば、カララもカーシャも死んだけど、ガンド・ロワに迫って、あと一歩みたいな所だ。

天元戦の一力はまだ若い。十代だし、テレビでは好青年みたいだが、そんなわけない。在学中は半分の女子とか、先生も食っちゃたような人間に決まっている。その方が漫画としては面白いでしょ?

すると井山裕太は大三冠だが、実はひとりきりだと酒に溺れているとかか? 

いずれにしろ、囲碁は面白いのである。AI疑惑で問題になっている将棋の方が、そりゃライオンの漫画になったり、アヒルの写真満載で話題なんだけど、囲碁だって本当に面白く熱い人材の宝庫だったりするのである。

というわけで第一戦は負けてしまったのだけれど、こんなもの、ルパンがカリオストロで撃たれて、はいお水、と言われているようなものである。 

ここからが反撃の狼煙である。 

井山裕太の一人勝ちでは、井山裕太が可哀そうだ。棋譜を見れば、後世の人だって、彼の強さはきっと分かる。しかし、彼に並び立つライバルと呼べる人がいなかったというのは、絶対に許してはならない。

これほどのライバルの中でも勝ち続けた。なお一層その勝利に価値がある。そう言われるようにしなければならない。強かったけど、相手に恵まれすぎなど、この時代に対する最大の侮辱であろう。

もちろん、国内で天狗になっても困るし、世界には強い人がたくさんいる。7冠と言っても、しょせんは日本アカデミー賞を取ったようなものだ。本家のアカデミー賞にはかすりもしないのである。

 

世界に出た時、井山裕太がヤンウェンリーになるのである。

 

秀吉の朝鮮出兵、明治政府の日清戦争と違って、囲碁ならばどれだけ戦っても、戦争になる心配がない。それが囲碁の良い所だ。

あと5年もすれば揃いもそろって世界中の全員が AI の前に屈服するのである。その時に、囲碁は、勝利ではない他の価値を見出さなければなるまい。


文字が出現した時に、これで我々は賢くなれると言ったら、いいや、これで我々は馬鹿になる。だれも文字に頼って覚えようとしなくなるから、という話がある。

写真が出現した時の画家たちの驚愕はいかほどであろうか。だが、写真がなければ、おそらく近代絵画も、ピカソも、そしてデザインというものも生まれてこなかった。

AIによって囲碁も新しい価値観に向かうはずである。AIには簡単なゲームでも人間には決して解けない答えのようなものだから。

 

2199での造形のすばらしさを考えれば、2202の地球艦隊が、どれほど素晴らしい映像になって動くか、今からワクワクである。

 

2199の冥王星沖海戦を日露戦争だとすれば、さらばの艦隊は、まさにWWIIのそれである。艦隊戦という限り、さらばでは立派な海戦として描いてほしいのである。

 

できればアンドロメダを主役として艦隊戦を2~4回は見たい。

 

そのためなら白色彗星とか、超巨大戦艦は外してもらって構わない。あの設定はもう見直す時期に来ている。

 

白色彗星の中のコアがまるまる帝国都市というのはやはり今の時代では滑稽だろう。その彗星の中の小惑星に建築された要塞群という方が、絶対に説得力はあると思うのである。

 

だいいち、月を破壊した辺りから、ヤマトのインフレが始まったと言って過言ではなく、今度こそ、それは阻止しなければならない。

 

マンネリであっても、ヤマトの艦隊戦はどの作品でも見ごたえがあるのである。艦隊戦だけに限れば、世界中のSFの中でも圧倒的である。Star Trekだろうが、STAR WARSだろうが、Galacticaだろうが、SPACE:1999だろうが、艦隊戦の敵ではないのである。

 

もちろん、これにはWWIIの艦隊戦のイメージが根強いせいである。それ以降の近代戦を知らないという話もある。エグゾセがイギリスの駆逐艦を撃沈したのにはロマンを感じないせいでもある。

 

「さらば」と「やまと2」では、もちろんだが、メッセージ性がだいぶ違っている。さらばは一度も見た事はないが、その後の続編を見る限り、黒歴史はさらばの方である。

 

第一、ヤマトが単艦で突っ込んで敵艦に体当たりするのがいまいちであるし、テレサも一緒に突っ込みましょうと言ってるが、そもそもあんたが一人で突っ込めば全部解決するんじゃないか、と言う本音はひとつの正論である。

 

もちろん、テレサ一人を殺させはしない、行くときは俺も一緒だ、というザンボット3的論調も捨て難いのだが、さらばの演出はそれには失敗している。

 

ご都合主義の見本と言うべき脚本であって、あれで涙できる人の感性は信用できない。そういう人は余命何か月とか犬ころが海を泳いで溺れ死ぬような映画で十分なはずである。

 

というような話は置いても、さらばのラストは特攻であるし、あそこに特攻を持ち込んだ事は、もちろん、日本の敗戦と無縁ではないが、いずれにしろ、テレサだけが突っ込めば万事解決という話からすれば、古代はもちろん犬死である。その特攻は今ではテレリストの専売特許であって、毎日だれかが爆弾を抱えて死んでいく。

 

当然ながら彗星帝国から見れば、ヤマトはテロリストのそれである。ではなぜ彗星帝国は宇宙を支配しようと望んでいるのか。ここが物語の中で最も肝要と思うのである。

 

ガミラスにはまだ移住しなければならない理由があった。あれだけの星域を支配しても、移住に適した星が見つからなかったのだろう。そしてやっと見つけたのが地球であった、というガミラスにはガミラスの正義があった。それはヨーロッパの人がアメリカ大陸でやった事と比べればずっとまともな正義である。

 

では彗星帝国はどうか。この辺りは、どうも悪の枢軸国としてだけ描いている。彼らの正義も野望も野心も丁寧には描かれていなかった。彼らに進出する明確な理由はなかったような気がする。ここが肝心かなめ、物語の成否の要である。

 

彗星帝国をナチスのように描くのか、それとも、彼らには彼らの正義があるのか、はたまた、彼らはまるで軍隊アリのように、ただもくもくと進出する。それが彼らの生態であるとして描くのか。

 

深宇宙から、何かがくる。

 

それに対抗するためにアンドロメダがある。主力戦艦が建造された。地球艦隊は再建されたのである。ただのリメイクでも、これらの艦隊がカッコよければそれでいいのである。

 

地球艦隊 オリジナル と検索すれば、世界には腐るほど、かっちょいいロマンが転がっている。

 

可能ならこれらの艦船を動かしてほしいなぁ。

 

いつもあったものが無くなってしまうのは、寂しいものだ。

 

両さんはただの漫画ではなく、風俗の記録庫でもあった。

 

時代の風俗を後世に伝えられる漫画はそんなには多くない。サザエさんが他と一線を画すのもその部分だと思う。

 

ただ下町をメインとしていたので、記録としては地域的に偏っているとも言える。

 

だから、もっと日本中のいろんな町の風景も見てみたいな、と思ったりもした。下町以外の日本中のいろんな町の話が読めれば楽しそうだ。でも、そのイメージはやっぱり両さんなのである。そのまま、両さんの日本行脚みたいなイメージなのである。

 

水戸黄門か、おい、という感じである。

 

いつか来るものが今年きた、それだけの話である。


ついに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思わざりしを(藤原業平)