「最期は、男らしいってのはこういうものだよっていう気持ちもあったと思います」美輪明宏
数年前、読売新聞が全社を挙げて連載した「昭和時代」。その中で47年前の今日、11月25日に起きた昭和史に残る衝撃的な事件、ノーベル文学賞最有力候補作家・三島由紀夫の自衛隊市ヶ谷駐屯地への乱入の後の割腹自殺事件が取り上げられていました。全てを紹介することはできませんが、2つ印象に残ったエピソードがあります。 一つは、ノーベル文学賞にまつわるエピソード。三島の名前がノーベル文学賞の有力候補として外電経由で日本のメディアに報じられたのが1965年。しかし、1968年、日本人初のノーベル文学賞に決まったのは、川端康成だった。川端は三島が文壇に出るきっかけをつくった人物である一方、川端は三島にノーベル賞への推薦文を依頼している関係にありました。川端にノーベル賞が決まったことに対する三島の思いはかなり複雑だったようです。三島はこんな言葉を残している。「もし、川端が取らなくて俺が取っていたら、日本の年功序列はがたがたになったのになあ。そして、こう付け加えた。次に日本人がもらうとしたら、俺じゃなくて大江(健三郎)だよ」。その予言は26年後に的中する。 もう一つのエピソードは、三島と18年交流があった歌手の美輪明宏さんの証言です。
「一つの結果は、一つの要因だけじゃなく、多くの要因が重なって、一つの結果になる。天才の心象風景は、凡人に推し量れるものじゃありませんが、虚弱体質で運動が苦手、学習院でいじめられたコンプレックスはずっとあった。最期は、男らしいっていうのはこういうものだよっていう気持ちもあったと思います」。三島の自決は永遠の謎ではあるが、この美輪明宏さんの証言は、私がいままで聞いたなかで一番そうだなと頷けるものです。