先日のことだ。
社内に私と父親がいる時だ。
(もちろん、他の社員もいる)
突然に見知らぬ来訪者があり、
父親と同じ高校の後輩だという。
その人は、年の頃が四十代であり、
老いたる父親もそのような男は知る由もない。
しかし、告げた出身高校の名前は
確かに父親の高校であり、
どうやら父親はその地元の高校では
有名な存在でもあり、その人は
そのような口ぶりで父親と親しく挨拶を
していた。
初対面の挨拶もそこそこに
その人は
実は広島市から来ているのだが
不意のアクシデントで広島に帰るお金が
足らなくなって、なんとか千円程度お借りできないか、と言い出した。
私たち社内にいた人間は
一瞬固まった。そういうことだったのか、と。
すると、私の父親は
「ああ、そうですか」とすぐにポケットをまさぐりながら千円札を取り出した。
ええっ、
明らかに「その手」の男なのに
無条件にお金を渡すとは。
ちなみに、
私の父親は財布を持たない。
お金に執着がない父親は
ポケットにたまたま入っているお金で
生活をしているふしがある。
あまりにアッサリとお金を出す年寄りを見て、その男はさらなる説明を加えて
できれば、3千円を貸して欲しいと
厚かましく値上げしてきた。
すると、
すると父親は、
「ああ、そうですか」
とまた、ポケットからたまたまあったのであろう千円札を二枚付け加えたのである。
私たちは呆気に取られた。
いかに歳を取ったとはいえ、
父親も相手がどのような男なのか、
ということぐらいは瞬時に理解できている。
それでも、
3千円のお金なら騙されてやろう、と
したのだった。
私はその光景を唖然と見ていた。
歳を取ってしまい、ボツボツと職場には
出てきてはいるが毎日を淡々と生きている父親。
この人の歳に
私はこのようにわざと騙されたふりをして
小金を渡せるだけの生き方ができるのだろうか、とただ考えていた。
男はペコペコと礼を言い
いついつには必ず返しに来るからと
そそくさと逃げるように帰って行った。
名前を聞くでもない
住所を確認するでもない
父親はまた
机にも戻り
淡々と新聞を切り抜き始めるのであった。
この男が味をしめて
同じことをどこかで繰り返すかもしれないし、もしかしたら本当に困っていたのかもしれないが、
どちらにしても、
困っているからこそ
父親はお金を渡したのだ。
それでいいのだ。
と、父親の背中が言っていた。
損をしたとか
得をしようとかそんなことは
どうでもいい人生だった父親の
真骨頂である。
明日で83歳を迎える。
