ワシは小さい頃アホだったから、太陽が西から昇るのか東から昇るのか、どうもハッキリしなかったのだ。これはひとえに「天才バカボン」の歌のお陰で、頭がわるくなったとしか考えられんのだ。
漫画家・赤塚不二夫が亡くなった。享年は72歳のようだが、新聞・テレビでは報道がされていないが事実上この6年間は意識の戻らない状態でそのまま生涯を閉じてしまった。
あわてて以前に読んだ「赤塚不二夫のことを書いたのだ」(文春文庫)を引っ張り出してみた。
ワシらの小さい頃は、テレビではドリフターズであり、マンガは赤塚不二夫が100%ギャグの文化であったから、本当にひとつの文化時代が終焉を迎えたものだと、時代を今さらながら振り返ってしまった。
当時の週間少年マンガの勢いたるもの、現在では例えようの無い社会史であったと思う。少年「サンデー」「マガジン」「ジャンプ」「チャンピオン」「キング」まだまだあったと思うけど、どのマンガも文句なく面白かった。その燃え盛る少年マンガの時代の裏側と赤塚不二夫の時代を赤塚担当で、彼の最後までのお気に入り編集担当の武居氏が雰囲気そのままに詳細に書き綴っている。
当時、少年サンデーは赤塚不二夫の「もーれつア太郎」でいささかの苦戦を強いられていた。かたや、ライバルの少年マガジンは「巨人の星」「あしたのジョー」そして「天才バカボン」という超巨大三枚看板で売り上げを残していたのだった。そして、サンデーは「天才バカボン」をマガジンから引き抜くという禁じ手を使うのだった。このあたりの描写は緊張感もあり、赤塚不二夫はこのような出版会社や編集者とのはざ間に合って、またいっそう酒に傾いていくのである。
タモリを見い出し、居候をさせ、生活を見てやりながら彼の秀でた芸をなんとかテレビに売り込みたいと思いつき、見事世に送り出したのだ。その時、赤塚が好きだったのがかの幻の天才芸「4ヶ国語マージャン」だ。ワシも大好きだったからな。
子ども心に彼の作風がある時からとても乱暴になってきたり、編集者や仲間内のことばかり出てくるような、昔の「僕たち」の赤塚マンガではなくなっていったことに違和感を覚えだしたことを覚えている。
イヤミ、チビ太、デカパン、ハタ坊。「もーれつア太郎」の愛すべきキャラクターの連載も、時を同じくして登場したライバル誌の「あしたのジョー」の台頭で時代の流れを大きく変えられてしまったようだ。
もうあのような、ハチャめちゃで破天荒で子どものような天才ギャグ漫画家は現れない。
その事実だけがワシの頭で唯一理解のできる事となってしまった。
赤塚マンガに冒されてその頃の童顔の少年もこんなになってしまいました。
総理官邸を背景に一枚。もう少し真面目に撮れんのかいな。
すまぬ、すまぬ。今回は若い人には全然わからんお話になってしまったわ。
きょうもボクのブログをチェックしてくれて本当にありがとう。
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