6月14日の産経新聞コラム「産経抄」に昭和の名人・八代目桂文楽のことが書いてあった。
ちょうど、桂文楽の落語を何度か聴き返していた最中だったので興味深く読ませてもらったのだ。
文楽と言えばその引き際の潔さが彼の落語人生と相まってその真実が伝説とまでなっている。
昭和46年8月31日。
国立小劇場で「大仏餅」というネタを口演中、神谷幸右衛門という人物の名前に一瞬つまり、出てこなくなった。
文楽はとっさに、「申し訳ありません。もう一度勉強しなおしてまいります」と頭を下げて高座を降りてしまった。昭和の名人がである。そして、それ以後は一切寄席に上がることなく、三ヵ月後に79歳の生涯を終えた。
「その日がくる」かも知れないと、文楽はその「もう一度勉強・・・」という詫び口上さえ前もってきちんと稽古をしていたというから、それもまた文楽を語る伝説となったのだ。
文楽の持ちネタは30数席と言われていたが、実は300にものぼるネタを何度も稽古していていつでも出来るようにしていたという。弟子がネタ帳を盗み見たときにはその膨大なネタの口上がびっしりと書いてあり、赤〇で息継ぎのところまでしっかりと書いてあったと言うが、それらを高座で披露することはなかったらしい。それゆえ文楽の噺(はなし)は「どれをとっても十八番」と絶賛される由縁なのである。
「富士山も裾野があってこそ高いんですよ」
と当時の文楽はさらっと言ってのけたと云う。
戦前に所属していた落語組織が崩壊した時には、すでにスターであった文楽であるが、仲間や後輩全員の行く末が決まるまで自らの身の振り方を決めなかった。不遇な人間をも大事に見守って気にしていたのだ。「わたしは最後」を貫く。
なにごとにつけきっぱりとした文楽の人間らしさを、その「産経抄」に見る。
(私の祖父も南方で戦死を遂げたのだが)文楽の長男も若くして軍務により大陸で消息が途絶えてしまった。20年7月というから終戦のわずか前だったのである。留守家族の多くは時が立つにつれて身内の戦死を認めざるを得ず、遺族年金などを受け取るようにする。
しかし、文楽はかたくなに手続きを拒んだという。
「生きていると信じることが、親の生きがい」と語っていたらしい。
このたびの震災で、三ヶ月を経過すると保険が下りるのだが、その申請を取り下げた主人を待つ奥さんの様子が伝えられたのを見た。不明者のリストを毎日見に行くその奥さんは「あってほしいような、あってほしくないような」複雑な気持ちで毎日その体育館を訪れるらしい。
なんとも云いいようのない哀しみと怒りが、だらしない国家に向かうのは必然である。
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