野球で投手の投げる「ナックルボール」という球種は、誰にでも投げることができるわけでなく、その努力と素質が大いに左右する、ましてや投げた本人自体もどこに球が行くのかわからない、いわば「魔球」とまで言われる特殊な球種であることは、おおかたの男性はご存知だろう。
そこで6月下旬の日曜日、日本経済新聞の最終面に作家であるねじめ正一氏のコラムがぼくをひきつけた。そのタイトルも「老後ナックル」というお題だったのだ。
この文章が非常にいい。
とても心に残る名文だったので、そのざっくりとした文章の内容を紹介してみたいと思う。
ねじめ氏のお母さんは難病で、その看病疲れもあり息子として「落ち込む日々」が続いていた。そんな日々と重なるように親友の漫画家がナックルボールの練習を始めたという。最初にそれを聞いたときには、ねじめ氏も母の介護に追われていて聞き捨てていたようだが、2年たってもまだナックルボールの練習を親友は止めていないと言う。
毎朝、壁に向かって「魔球ナックル」に挑戦する親友は、電話で話をしていても自然とそのナックルボールの話になり、立てる指の数は2本がいいとか3本にしてみたとか、投げ方の説明をしだす。そして「どこへいくかわからないんだ。このわからなさがたまらなくいいんだよ」と云ってくる。
「彼のナックル理論は理解不可能ではないのであるが、母の介護の最中の私にはもうひとつ彼のナックル理論が響いてこなかったのである」
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そうこうしているうちに、その親友の漫画家は20年、30年以上続けていた連載をすべて止めてナックル習得に集中しはじめたという。連載と言うのは安定性と引き換えに、不自由さを差し出すのである。止めたいと思う漫画家(作家)は多いのだが、実際にそれをすっぱり止められる人は稀(まれ)なのだという。それはそうだろう。
しかし、その漫画家の友人は老齢を迎えてその安定をきっぱりとうっちゃり、ナックルボールに没頭していくのである。
そんなある日、ねじめ氏とその親友が逢うことになり、せっかくなのでキャッチボールをやろうということになった。「ねじめさんには、前々からナックルを見てもらいたかった」と無邪気に云うのだ。そして二人はまるで子どものように適した公園を探してまわり、やっと大人が二人でキャッチボールを始めた。
「ねじめさん、オレのナックルは縫い目に頼らないんだよ」 ナックルって夢のある球だけど、落ち着かないんだよね」と言うと、彼はすかさず「そうなんだよ。ナックルって自分の思うとおりにいってくれないんだ」と嬉しそうに言うのであった。
最初は肩慣らしから始めた二人のキャッチボールも、親友の肩が温まりいよいよねじめ氏はナックルを受けるために座る。どんどん投げるうちにふわふわゆらゆらと適度に揺れて落ちて来る。低めに決まりだすと、ショートバウンドも増えてくる。「でも、このあわただしさがナックルである。落ち着いたナックルなんかナックルではない」 彼は「自分でも納得のいくナックルが一球も投げられないんだ。でも、それがオレにはいいんだ。あと5年はナックルを投げ続けてみるよ」と答えた。
親友は長年の仕事の疲れを癒すためにナックル習得に燃えていたと思い込んでいたねじめ氏だが、そのひと言でそうではなかったことに気づく。そんな単純なことではなかったことに。
「彼自身の理想の老後を考えるためのナックルだったのだ。彼は次の仕事なんぞ考えるのは野暮だと言わんばかりに壁に向かってナックルを投げ、本気で楽しんでいるのである。」
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以上、長文を簡単にまとめるのは至難の技であり、その能力もないので彼のほのぼのとしあ文体をお伝えできないのが非常に残念なのだ。
年をとり分別も常識も、そろそろ人生の終着点のイメージも、誰しもが「収めよう」とする頃がいつしかできてくるのだろう。ましてや、自分のことでも精一杯の毎日に親の看病などが重なる年である。「こんなもんさ、人生は」などと現実を無理やり重ねていく私たち。
していいか悪いかなどという分別は、もうたくさんなのだろう。 わくわくすることにチャレンジできなかったことなども脳裏をよぎるのだろうか。 毎日を壁に向かって(誰とも対決するわけでもない)ナックルボールを、ひたすら投げまくる。
「どこへいくかわからないんだ。このわからなさがたまらなくいいんだよ」 そう思いながら若い時には毎日が新鮮であり、落ち着くことを拒絶してきたはずだ。
ナックルボールにあの親友は、自分の人生の想いを馳せたに違いない。
「夢はあるが落ち着かない。自分の思い通りにならないこと極まりない」。
なんと人生とナックルボールとはかくも重なり合うことだろう。
行き先はボールに聞いとくれ。
老後のナックルボールは、実にその球筋に反してなんと潔いことか。
その日の朝刊を読んで勇気づけられた初老はなんと多かったことだろう。
ねじめ正一さんに感謝。
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