山田方谷

 つか読んでみたいと思っていた一冊をやっと休日の午後に一気に読んでしまった。感謝。  

山田方谷(ほうこく)は、備中松山藩(現在の岡山県高梁市)の家老職として藩主・片倉勝静(かつきよ)より、藩運営を任され、没落寸前の備中松山藩を見事に財政復興させた伝説の人である。  

は農民出身の自らを「暗愚」と呼ぶ、しかれどもその一本の筋の通った性格は、幼少より父母の教育、教えの厳しさの賜物だったものと思われる。

 著者の童門冬二氏は、この備中松山藩をドラスティックな手法で立て直らさせたのは、養子である藩主・片倉勝静と、農民上がりで前藩主の抜擢により藩の重鎮を務めた方谷という、しがらみのない絶妙のコンビであったことがひとつのポイントであったと書いている。

 たしかに方谷は、思い切った手法を随所に見せて見事に財政再建を行った。しかし、では果たして彼が切れ味鋭いエリートタイプであったかというと、童門冬二氏の文筆では「否」である。方谷にはいつもぶれないものがあった。  

「誠は天の道なり。 誠ならんとするは人の道なり」

 これが方谷の信条であった。   

の道”の実現こそ大事だと説いてきた。

 だから、彼はどんな反対があっても誠の道を貫いた手法を持って、忍耐強く藩の財政を救っていったが、かといって民に性急さだけは押し付けなかった。しかし、まず彼ら農民と一緒に藩の重鎮が倹約に努めることだけは譲らなかったという。  

当時はどの藩も、商人から莫大な借金を背負っており、その金利を返済するだけでも藩政を圧迫し、しいては農民の年貢に跳ね返っていた。それを方谷は他の重鎮達の反対意見を退けて、自らの責任において行動し、見事それを実現させた。  

れは、今で言う「銀行に対するリスケ」のようなものである。(当初契約していた返済スケジュールを見直ししてもらうこと。信用につながるので申し入れしにくい)  

藩の信用失墜を怖れたほかの家老は猛反対をした。  

その時の備中松山藩では大坂商人に、莫大な借り入れを行っていた。それも同藩は「五万石」という幕府の認定であったが、「実は二万石しかない」ということを正直に大坂商人に頭を下げて伝えたのである。  それを聞いた商人は当初は大いに驚いたが方谷の正直さと真摯さに心を打たれて、十年賦と五十年賦という長期の返済スケジュールに組み替えることに成功したのである。それどころか、「誠」をもって藩財政の建て直しに懸命に立ち向かう山田方谷の人間性に魅かれた商人達は、その後、藩の江戸屋敷が火災で焼失した時に屋敷再建にお金を出し合ってこれを助けたと言うおまけまでついている。  

そして、方谷は勝負に出た。  

発濫造していた「藩札」(今で言う公債)の信用失墜に頭を痛めていた方谷。  

これでは外部からの資金調達がますます難しくなるばかりか、正貨(現金)との引き換え要望が引きをきらず、藩の長期的な財政再建に大きな悪影響を与えていた。  

それを方谷は、どこからか現金を調達して(あるいは長年の倹約でキャッシュが多少はあったと見えて)、それまでの藩札をすべて現金に引き換えて、古い藩札はすべて焼き捨てるという荒療治に打って出たのだった。失墜した藩札はニセの札まで出回っていたが、方谷はそれまでもすべて換金せよと命じたのだ。  

「備中松山藩の藩札は、国内で一番信用できる」という話になった。 結果的には、この手法は大成功して、新しい藩札が大きな信用を得ることになり、藩の財政もより安定化するのだった。  

しかし、何よりも大きな信用を得たのは山田方谷、その人だったのだ。  

主・片倉勝静は、幕末の徳川で家老職として、騒乱に巻き込まれ自藩をかえりみるどころではなかった。藩の再建を山田方谷に託したばかりではなく、最後には井伊直弼との政争でのアドバイスまで務めることになったのだ。  

備中松山藩のそれまでの財政状態と、現在の日本の状態が重なって見える。

 国債の濫発。労働意欲を低下させる税の負担。  

藩の財政は火の車で国民の胸のうちをおもんばかる余裕さえない。  

そんなときでも、幕府(国)は、権力者それぞれのイデオロギー論争に明け暮れる。  

ああ、歴史は繰り返す。  

山田方谷。  

明治十年七月、西南戦争の年に七十三歳にて没す。

山田方谷










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