人生にとって振り返ってみれば、それを受け入れなければならないこと、辛くともその道を突きつめていかなければならなかったことを知るのだろう。
先日の産経新聞にノンフィクションライターの小松成美さんが横綱・白鵬の「こころ」について実に感動的な文章を紹介してくれている。
辛い入門時から、現在の勝つことを定められた横綱の地位について白鵬は「宿命」という日本語に大きく心を揺さぶられてきた。
「一番一番相手を倒し、必ずチャンピオンになる。そう自分を奮い立たせてきた。だからこそ、血を吐くような稽古にも耐えられた。でも、横綱が宿命ならば、私が生まれたときからこの地位に就くことが決められてきたことになる」(白鵬)
そう白鵬を言わせるまでには、実に大きな試練が彼の運命を突き上げ続けていたのだ。
15歳で来日した白鵬は、最初は日本に興味があっただけの観光気分であったのだ。
父親はモンゴル国内では誰も知らぬものはないモンゴル相撲の英雄的な横綱。レスリング選手としてもメキシコ五輪ではモンゴル人としては初めてのメダル(銀)を獲得までしている。 しかし、彼(ムンフバト・ダヴァジャルガル)は、一人の兄と3人の姉に溺愛されて、甘え続けてきた可愛いだけの末っ子なのだったのである。日本にくるまでは両親と15歳まで川の字になって寝ていたという。
名門の進学校に通い、衛星放送でバスケットを楽しみ、レスリングでは全国大会で優勝したことはあっても、それほどスポーツに一生を捧げるつもりなどまったくなかったのだ。
しかし、ある地元力士によって彼の運命は一変する。
その力士の名前はモンゴル出身の旭鷲山(きょくしゅうざん)。父親の教え子でもある旭鷲山の活躍はモンゴルでも大人気であり、少年白鵬自身も「家族のようなつもりで」応援し、クラスメートと学校で貴乃花や曙のマネをして相撲を取って楽しんでいた。と同時に、少年は取り組みの最後を飾る横綱の強さに心を奪われていた。
そんな彼に旭鷲山が力士候補を日本に連れていくことになり、少年は「日本行きたさ」に即座に頼み込んだ。力士になりたいのではなく、ただ日本見たさのためだった。しかし、この発想が大変なことになるのだ。
2010年10月。
6人のモンゴル人とともに日本にやってきた少年。そしてさっそく相撲の稽古が始まった。そこへ連日、各部屋の親方が訪れ、目星をつけて者をスカウトして次々と連れて帰るのだ。
「当時、私は175センチ、68?とやせていて、稽古場ではまったく歯が立たなかった。一緒に日本に来た仲間が次々と入門を決めていく中で、私だけが取り残されました」
観光のためにきたのだ。一人でモンゴルに帰っても誰からも責められることはない。しかし、そんな重いとは裏腹な複雑な憤怒が、彼の体を貫いていった。
「日本の社会人力士を一度も倒せなかった私に、どの親方も声すらかけなかった。このまま逃げるようにモンゴルに帰れば偉大なる横綱である父の名を汚すことになる。その思いが胸を突き上げていました」(白鵬)
自分を恥じた少年は、このままではモンゴルに帰れないと、旭鷲山に胸の内を明かした。涙を流す少年を放っておけない旭鷲山は自分の師匠の大島親方に相談し、親方の骨折りで宮城野部屋にやっと入門が決まったといういきさつがあったのだ。
しかし、しょせん力もないひよわな少年である。ましてや片言の日本語もできないし、日本のカルチャーにもなじめない。新弟子では朝稽古で土俵を這いつくばらされ、土を食った。
それは、私らには想像もつかない辛さであっただろう。
ここあたりから彼の言う「宿命」という受け入れが心に芽生えてきた。
「人生が一変したことに驚く暇さえなかった。ただ、受け入れるしか生きる道はないのだと自分に言い聞かせていました」(白鵬)
小松成美さんはこう文章を締めくくっている。
-日本という国との邂逅、自分の血を沸騰させた王者である父の存在、わずか15歳で享受した異国の文化。白鵬が宿命を持った横綱であるか否か、試される激動の日々がスタートしたのだった。-
受け入れることによって人生の宿命を感じる。
辛きこともただただ黙って享受し、自らの命を上り詰めていくのだ。
彼もあなたも、そして、私も。
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