「心の中のふるさと」—天草島— 荒木忠夫    

のふるさとは、熊本県の天草島である。島原の子守歌に「おんのいけ(鬼池)の忠助どんの連れにこらるばい」と歌われている天草下島の最北東にあたる、五和町鬼池という港のある半農半漁の小さな町である。  私の家は、いわゆる五反百姓の農家で、八人の子供を養うのは楽ではなかった。米飯を食べるのは、盆と正月と村祭りに限られており、日常はさつまいもか麦飯であった。

 

かし当時は鰯(いわし)が豊富で、地引き網でいくらでもとれたため、食べきれずに田畑の肥料(いわしごえ)にするほどであった。私たち兄弟は、厳しい父に、この鰯を魚のまま食べさせられており、父の目を盗んでは、そっと、骨をおぜんのしたに隠して、捨てたのを覚えている。芋と鰯が当時の私たちの常食であり、お菓子や飴など甘いものなどめったに食べず、鰯を骨のまま食べて腹を満たしていたから、歯医者などいらないのである。私の家では、零細農家のうえに、八人兄弟という子沢山で私が中学に行くようになっても、あまり生活水準の向上は見られず、相変わらず同じような状態であった。  

当時のように、姉や兄は中学卒業と同時に口減らしの為、ちょっとしたコネでも頼って島から出ていったのである。  
私は、姉や兄が小さな連絡船で港から出ていくたびに、突堤の先端の赤い灯台の下で、
いつまでも立ち続けていた母の姿を、今でもはっきりと思い出すことができる。    

中学一年生に入学した年の春の遠足は、私にとって、一生忘れられない遠足であった。遠足の楽しみは弁当であり、私の家でも、遠足の時だけは母がいつも、米飯の大きなにぎりめしに、卵焼きを添えてくれるのであった。  

 

の遠足の朝、母は、私に弁当を手渡しながら、悲しそうな目で、中身が芋であることを、告げたのであった。

そして、私の手を強く握って、しばらく離そうとはしなかったのである。私は大声で母をののしり、その手を振りほどいて、泣きながら走ったのだった。

弁当の時間、天神山のつわぶきの、芽吹いた藪の中で、私を探す友達の声を遠くで聞きながら、私は空腹に勝てず、私はその芋を、泣きながらかじったのであった。中学生の私には、そのときの母のつらさがどんなものであったのか理解できるはずもなく、帰ってからも、母をせめ続けたのであった。   

天草の正月もまた、母を通じて、私の心の中に一つの風景を残している。

 

れは、私が中学3年生で、高校受験を間近に控えた頃のことであった。私は先生のすすめもあって、他の二人の友人と共に、天草島を離れ、熊本市内の高校を受験することを目標に頑張っていた。市内の高校に行くことになれば、下宿が必要で、そのために要する費用は大変なものであった。八人の子供を抱えた五反農家の父母には、とうてい、そのような余裕などなかったのである。それでも父母は何とかして、私を希望通りの高校に進学させようと、いろいろ努力したようであるが、やはり、無理だったのである。  

 

12月のある寒い夜、父は私を囲炉裏の端に座らせ、市内の高校をあきらめて、地元の高校に進学して欲しいと私に言った。私は、泣きながら父のかいしょうの無さを、大声でののしった。日頃、厳しい父も、その時は無言で何かをかみしめているようであった。母は、何かを頼むような目で私をじっと見つめ、その目には涙が光っていた。しかし、私は、消えかけた囲炉裏の火を見つめながら、父母をののしり続けたのであった。  

 

それから、私は勉強もせず、家族にも口を聞かない日が続いていた。その為、家の中は、毎日、何となく重苦しい日が続いていた。そして、年が明け、元旦となった。私は、家族全員で毎年行う初詣に参加せず、一人でふとんをかぶって寝ていたのであった。  

 

目を覚ますと、枕元に五・六枚の年賀状がおいてあった。私は床の中で何気なくそれを手にし、たいした感情もなく、一枚づつそれをめくっていった。それは、ほとんどが同じクラスの友人達からのもので、今年も頑張ろう、今年もよろしく、という内容のものであった。しかし、最後の一枚を読みながら、私は驚いた。それは、およそ、年賀状らしくない長々しいものであり、鉛筆書きで、ところどころ、なめたらしい濃い部分が残り、カタカナ混じりで書かれていた。差出人の名前はなかったが、私には、それが同じ家に住む母からのものであることは、すぐにわかった。  

「おまえに、明けましておめでとうと言うのはつらい。でも、母さんは、お前が元旦に、みんなの前で笑いながら、おめでとうと言ってくれる夢を何回も見ました。母さんは、小さい頃、お前が泣き出すと、子守歌を唄って、泣きやませましたが、今はもうお前に、唄ってやる子守歌もないので、本当に困っています。今度は、お前が母さんに、親守歌を唄って欲しい」  

 

14歳の私は、元旦の床の中で声をあげて泣いた。それは、中学3年生の反抗期の私に対する、母の心からの子守歌だったのである。  

 

この母の子守歌のおかげで、私は立ち直り地元の高校に進学し、その後、高校卒業と同時に、大学へも進学した。父は、私の大学入学の時、大切に残してあった、山の種松を売って、3万円の入学費用を作ってくれたのであった。しかし、その後は、私は父母の援助をほとんど受けず、アルバイトと奨学金で大学も卒業することが出来たのであった。  

そして、現在の会社に就職して、もう16年の年月が経ち、長男はやがて中学生になろうという年齢になってしまった。そして、昔の私と同じように、もう、親に反抗し始めているのである。  

 

しかし、私の心の中にふるさとの母の心の匂いのする鬼池の赤い灯台と、天神山のやさしい風景がある限り、私は、大丈夫だと考えている。  

 

母も、70歳となった。この母が、これからはどんな子守歌を唄ってくれるのだろうかと考えながら、同じふるさと出身の妻と、反抗期の子供達を連れて、私は母の住む天草島に、今年もまた、帰りたいと考えている。










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