ダウン症児のママはシンガーソングライター MIMOの「ギフト」な日々 -2ページ目

ダウン症児のママはシンガーソングライター MIMOの「ギフト」な日々

ダウン症の愛娘の子育てと、シンガーソングライターとしての音楽活動を楽しんでいます。
みなさんが元気でやさしくなれる情報をお届けいたします!

前回の記事で、

あたしたちは

おとーさんの身体に

これ以上

新しい処置を加えないことを決めた。

栄養を入れるための
CVポートも作らない。

そのことを
主治医に伝えた。

 

 

先生は
あたしの話を黙って聴いていた。

そして最後に少し涙ぐみながら

こう言った。

 

「‥‥分かりました。」

 

 

その一言は、決して

軽いものではなかったと思う。

 

 

医師には
患者の命を守る責任がある。

栄養を入れる方法があるのに

家族が望まないからといって

簡単に

「分かりました」

と言えるはずがない。

ではなぜ先生は

あたしたちの決断を
受け止めてくださったのだろう?

 

 

たぶん先生は

その日の結論だけを
受け取ったのではなく‥‥

そこに至るまでの
あたしたち家族の時間を

ずっと見ていてくれたのだと思う。

 

 

 

 

 

2016年6月。

おとーさんは
不慮の事故に遭った。

昨日まで
木に登っていた人が

翌日には
身体を自由に動かせなくなった。

あたしは

どうしても
おとーさんを
もう一度

立たせたかった。
歩かせたかった。

 

 

何か方法があるはずだと思った。

わずかな希望でも

見落としたくなかった。

 

 

あたしがお世話になった
整形外科の先生を訪ね歩いた。

信頼している先生にも
相談した。

膝関節の日本の第一人者にも
聞いた。

 

脊髄損傷の患者さんへの

 iPS細胞を使う治療法が

 始まりつつあるのだけど

 ちょっとまだ時代が

 間に合わなかったね。

 網膜はもう

 始まってるんだけどね」

 

そしてあたしをいたわるように

本当に静かにやさしく

 

「お気の毒としか‥‥

 言えないなぁ‥‥」

 

と目を落とした。

あと数年

時代が進んでいたら。

その悔しさが
あたしの胸にずっと残った。

 

 

事故後すぐ運び込まれ

命を救ってくださった

救命救急病院から

二ヶ月後に

リハビリ病院に転院した。

うちから車で

二時間以上かかる場所だった。

 

 

足の機能はもう

無理かもしれない。

でもせめて

食べたり飲んだりさせたい。

おとーさん自身も

その日を夢見て

毎日リハビリを頑張っていた。

必死だった。

 

 

ユアトーンという

人工喉頭の機械を使い

事故後初めて

「ありがとう」

「ごめんね」

というおとーさんの声を聴いて

パパと二人で嬉しくて泣いた。

手だけの力で車椅子を動かし

ナースステーション一周した

その後ろ姿を見て

また感動して泣いた。

ここまで伴走してくださった

リハビリ病院にも

本当に感謝しかない。

 

 

だけど

どれだけ頑張っても

水は飲ませてもらえなかった。

あたしがそばについてるから

ひとくちでいい。

飲ませてはダメですか?
吸引方法を学ぶので

あたしがしてはダメですか?

‥‥ダメだった。


 

 

それでもおとーさんは

最後まで
水を諦めなかった。

 

 

そんな中

リハビリ病院を
退院しなければならない日が来た。

 

 

おとーさんは

痰や唾液が多く

24時間
吸引が必要だった。

そのため

受け入れてくれる病院は
ほとんどないと言われた。

あったとしても

今よりもっと遠いという。

 

 

そして

胃ろうという選択肢も示された。

本人に聞いた。

「胃ろう、やる?」

おとーさんは
首を横に振った。

望まなかった。

「口から飲ませろ」と。

 

 

あたしは思った。

おとーさんに必要なのは

身体を管理してもらうこと

それだけじゃない。

あたしたち家族が
そばにいること。

会いに行けること。

顔を見られること。

笑い合えること。

それが

おとーさんの
生きる力になる。

あたしは
そう信じていた。

 

 

だから

自分で病院を探した。

 

 

 

市役所から

我が家の近くの

医療型療養病院の

一覧をもらい

かたっぱしから
電話をかけた。

断られた。

泣きながら

また電話をかけた。

でも断られた。

それでも
探すのをやめなかった。

 

 

そしてようやく見つけたのが

家から車で20分の病院だった。

 

あたしの話を一通り聴いた後

電話の向こうの男性は

 

「分かりました。

 お役に立てるなら。」

 

と言ってくださった。

今度は嬉しくて泣いた。

ただし条件があった。

 

「一度、

 ご家族の面談を

 させていただいても

 よろしいでしょうか?

 そのあとにこちらでも

 最終的に決めさせて

 いただきたいと思います」

 

 

これは家族の「覚悟」も

面接されるのだと思った。

 

 

面接に行った。

今までの経緯と

おとーさんの状態と病状

そしておとーさんへの

家族の気持ちを伝えた。

 

 

‥‥

すべてを理解した上で

病院は

受け入れてくださった。

 

 

 

入院してすぐ分かった。

患者本人をとても

大切にしてくれる病院だった。

患者だけではない。

家族まで
大切にしてくれる病院だった。

 

「あぁ。ここなら

 安心してお願いできる」

 

そう思った。

あの病院を選んだ
あの時の自分を

あたしは今でも
褒めてあげたい。

 

 

しかし療養病院では

本格的なリハビリは
ほとんどなくなった。

その代わり

あたしとパパで

前の病院の先生に習った

リハビリとマッサージをした。

できる範囲で

少しでも
身体が楽になるように。

 

 

毎週末あーちゃんも

お見舞いに通い続けた。

おそらく200回以上。

あたしたち夫婦は

それ以上に。

 

 

病室に花を持ち込めなかった。

だったらあたしたちが

花になればいい、と

明るく可愛い服を着て

笑顔で通い続けた。

 

 

あたしは病室で

歌を唄い続けた。

おとーさんは

あたしのライブの

選曲もしてくれた。

「いつでも夢を」を

唄い終わったら

 

「あんた、これ上手だよ!」

 

そう言いながら

指でオッケーサイン👌を

出してくれた。

 

 

童謡を歌っていた時

「次のリクエストは?」と聞くと

「とんぼ」と口元が言った。

ちゃんと

意思疎通ができていた。

 

 

おとーさんが体調不良の時に

「ふるさと」を歌うと

サチュレーションが戻り

心拍が安定して

すやすやと

眠りに落ちることが多かった。

 

 

会話が難しくなってきたら

歌うことで

「来たよ!そばにいるよ!」と

あーちゃんと二人で

ずっと伝え続けてた。

 

 

でも今思い返すと

支えてるつもりで

支えられてたのは

あたしたちだった。

 

 

あたしが
とてもつらい出来事があって

思わずおとーさんの
ベッドサイドで
泣いてしまったことがあった。

そうしたらおとーさんが

頭をポンポンとしてくれた。

言葉は無くとも

とてもあたたかかった。

 

 

次の面会で

 

「あれ?おとーさん

 今日元気そうだね!」

 

ってあたしが言ったら

おとーさんはこう言った。

 

「あんたもな」

 

そしてニコっと

最高の笑顔をくれた。

おとーさんはどんな時でも

あたしら子どもたちを

心配してくれてた。

 

 

父の日のカードに

 

「お父さんは昔も今も

 私たちのスーパーヒーローだよ」

 

ベッドの頭の方に飾った

そのカードを見て

看護師さんや先生は

 

「なんかとっても

 素敵なご家族ですね」

 

そう言ってくださった。

 

あたしたちはずっと

おとーさんのことを

「親父」として

尊敬し、甘え

「子供たち」を貫いた。

いや、貫かせてもらえた。

 

 

その様子を

病院の先生方や看護師さん方が

ずっと見守ってくださっていた。

いろんな相談にも

乗っていただいた。

おとーさんへの

あたしたちの愛情を

誰よりも理解してくれていた。

 

 

あたしたちは自分たちの

できることを探した。

本人の意思を聞いた。

苦しみも見た。

希望も見た。

弱音も聞いた。

そして

家族として

おとーさんの人生を
最後まで

引き受けようとしていた。

 

 

だからきっと‥‥

あの主治医の

「分かりました」は

ただのひと言だったけど

 

「全部分かってますよ。

 見てきましたからね。」

 

そう言っているように
あたしには感じられた。

そこに至るまでの
四年間ごと
受け取ってくださった、と。

 

誰よりも信頼していた

当時の主治医の先生には

感謝してもしきれない。

おとーさんの尊厳を

いつでも

最優先してくれたから。

 

 

あの面談の時

これ以上の処置は望まないと

先生には伝えた。

けれどまだまだ

おとーさんとは

一緒にいられるものだと

疑いもしなかった。

 

 

おとーさんは
不死鳥だった。

何度危篤になっても

そのたびに
あたしたちのところへ

戻ってきた。

だから

あたしは思った。

 

 

大丈夫。

あたしたちの時間は

まだまだ続いていく。

今までどおりに通おう。

また歌って

手をさすって

大好きだって

生きててくれて

ありがとねって

伝えに来よう。

そう思っていた。

 

 

だけど数週間後‥‥

日本中を襲った感染症が、
その日常を突然
奪っていった。

 

つづく