人魚の肉を食べてしまった犯人であり、騒動の元凶の一つである一葉と二葉。島に住むちいかわ族であり、ちいかわやハチワレのように顔ははっきりとは描かれず、エピソードが終わるまでずっとシルエット状態のモブキャラクターとして描かれた。



 ​一葉と二葉の動向

人魚を殺すきっかけとなった事件が起きたのは、一葉と二葉が海で釣りをしていた時のことだった。二匹はセイレーンと人魚がすぐそばでイカで遊んでいるのを目撃する。セイレーンは、2匹の住む島に突然現れたでかつよ族だった。島民たちはセイレーンが島に住み着いたことで毎日料理を差し出すことになってしまった。

一葉はセイレーンを見て震えていたが、二葉はセイレーンの歌のおかげで島の作物が育つと肯定的なことを言った。しかしイカ遊びに夢中になっていたセイレーンの尾鰭が船に当たり、二匹の船は難破してしまう。その結果、二葉は瀕死の重傷を負うまでに至ってしまった。





一葉は激しい憎悪をセイレーンと人魚たちに抱いた。そして以前本で読んだ『人魚の肉を食べると永遠の命が手に入る』という伝説を思い出した。

一葉はセイレーンや人魚が眠っている間に、『しるこサンド』を使って人魚だけを誘き出し、人魚が『しるこサンド』を食べるのに夢中になっているところを撲殺した。煮付けにして食べさせると二葉は復活した。



しかし、二葉は自分が永遠の命を持ってしまったことに激しく取り乱した。永遠の命は、つまり孤独でもあった。たった一人、老いて死ぬことができず生きていくことをしいられる。ゾッとして、二葉は一葉にも煮付けを食べさた。独りで生きるくらいなら、二匹で永遠を生きる方がマシだった。



一葉も永遠の命を手に入れ、二匹のお尻には単三電池をいれるところが発現した。『永遠の命』とは、つまり機械化することで電池を変え続ければ一生生き続けられるということだったのだ。二匹は人魚を殺して永遠の命を手に入れたことを秘密にした。セイレーンが怒り、島民を襲うようになっても二匹はだんまりを決め込んで島民を見殺しにした。



そして、セイレーンの討伐のために偽の宣伝チラシによってちいかわ達が島に来た。二匹は他の島民と違いセイレーン討伐に協力的だった。ラッコと島民が拉致された時は島の道案内をした。

そしてセイレーンが再び島を襲撃した際、あまりのカレーの辛さに暴れたセイレーンの尾鰭が二葉を吹き飛ばし二葉は二度目の重傷を負う。その時、衝撃で単三電池も共に飛ばされており、それをセイレーンに目撃されてしまった。さらに、ちいかわにも二葉の手当てをした際にお尻の電池ボックスを見られてしまう。

セイレーンを撃退した祝いの宴が開かれた時、お尻の電池ボックスについてちいかわに聞かれそうになった。しかし、ちいかわは震えながら手を握って緊迫状態の二匹の姿に聞くことをやめた。三匹とはそこで別れ、翌朝二匹は島を出て別の島へ逃避行をした。セイレーンに犯人だとバレてしまったためだった。

新しい島で永遠の命と共にここで暮らすことを決めた二匹だったが、二匹の島に泳いで向かうセイレーンと人魚の影が描かれて島編は完結となった。


​一葉と二葉の罪


一葉は、大事な親友を突然やってきた怪物によって瀕死にさせられたことへの復讐と、親友を助けるために人魚を殺したが、はたしてそれに正当性があったのだろうか。

二葉に危害を加えたのはセイレーンであって、人魚ではない。一葉はセイレーンに直接手を下すことはせず、罪のない人魚を殺した。それは人魚の肉が必要だったからという理由もあるだろう。しかし、二葉が復活した後に二匹でセイレーンを討伐しに行くことだってしようと思えばできたはずだ。しかしそれをしなかったのは、自分たちではあの強者には絶対に勝てないと察していたからではないだろうか。セイレーンと人魚を強く憎んでも、セイレーンに挑むほどの勇気はない。しかし、黙って泣き寝入りするのは気に食わないので、弱くて無抵抗の人魚を殺すことで溜飲を下げる。そしてセイレーンが怒り島民が襲われても、自分たちが助かるために仲間を見殺しにしてしまった。

私は島編を経て、セイレーンが“強さゆえの悪”と述べた。なら反対に、一葉と二葉は“弱さゆえの悪”だと考える。

きっかけとなる事件引き起こしたセイレーンは100%過失であることに対し、一葉は100%は故意。そして島民も見捨ててしまった。どちらが悪いと簡単には言い切れないが、自分たちのために仲間を切り捨てた一葉たちの方がやや邪悪かもしれない。

しかし、かといって一葉は親友の事故死を泣き寝入りするべきだったのかといえばそんなことは決してないと思った。釣りの場面では、前からセイレーンを怖がっていてる一葉に、セイレーンのおかげで恩恵もある(歌声で作物が育つ)と諭した二葉。一葉と違い二葉はセイレーンに友好的な姿勢すらあった。けれどセイレーンにとっては気にも留めない、些細な存在だったんだなと考えるととても虚しくなった。

私にとって、この島編は弱いことは罪なのかどうか考えるきっかけとなった。私は弱いことは罪ではないと思う。しかし、弱いことを肯定することはよくないと考えた。

どんなことにも必ず“弱い”“強い”という関係性はある。だから弱いこと自体は罪ではない。しかし、弱いことを肯定し、どうせ自分は弱いからと最初から諦めて何もしないでいることは罪だと考えた。


​どうすればよかったのか


大切な人魚を殺されたセイレーンにも、親友を瀕死にさせられた一葉にも大義はあった。だからこそ共存・和解はもう不可能だと思うので、私は島民たちとセイレーンたちは一緒の島に住むのはやめた方がいいと考えた。島編は、お互いに関わり合いを持ったことで、強者と弱者という圧倒的な差が復讐の連鎖を引き起こしてしまったので、セイレーンは海で、島民たちは陸で生きるべきだと考えた。

相互理解できない相手とは適切に距離をとり、棲み分けることがかえって共生になると私は考えた。

この“距離をとることで成り立つ共生”というものは、ジブリ作品の『もののけ姫』を見て学んだ。

『もののけ姫』も、『ちいかわ島編』と同じで、人間にも、自然に住む生き物たちにも大義があり、簡単に善悪を区別することができなかった。生きるために人は自然を削っていかなくてはいけないが、自然と生きていく生き物たちにとって人間の行いは少しも許せるものではない。

主人公アシタカは自然と人が共生できる道はないのかと作中で考え続けていたが、最後までサンは「アシタカのことは好きだ。でも人間を許すことはできない」と人間を拒み続けた。そしてアシタカも、

「それでもいい。サンは森で、私はたたら場で暮らそう。会いに行くよ。ヤックルに乗って」と告げた。最後いい雰囲気になった二人だったが、一緒には暮らさなかった。私は、これは自然と人間はお互いが100%満足するような形で共生することは絶対に出来ないと察していたからだと思う。だからこそ、ある程度の近すぎず遠すぎずの距離をはかることで「共生」の策を取ったのだと考えた。

この考え方は日常でも使えると思う。

「自然vs人間」という壮大なテーマでなかったとしても、自分が嫌いな相手や一緒にいたしんどくなってしまう相手とは、無理に傷つけたり一方的に我慢するのではなく、そっと距離を置いてうまく相手と関わっていくのが、上手な生き方につながると考えた。


画像の参考資料

出典: https://x.com/ngnchiikawa?s=21&t=Gs7X3bTF2yXa37gBJpRFFA