私もそう思う!

よく暇つぶしに見る
Web漫画でのワンシーン
です
笑笑

これは恋愛の話してるシーンだけど
勝手に自分に置き換えて
最後のセリフを……
"実際は、癌なんて全然
大したことねぇのに…"
って読んで喜ぶ私。
{フフフ

そして!話は変わって
笑

以前、見て心に残った
素敵な言葉を、またまた発見

神様は私たちに
奇跡
を起こしてくれる
困難や絶望から奇跡のように
私たちを救い出してくれる
問題を問題としては見ず
かえって問題を通して自身を現して
出会ってくれる
だから、奇跡の始まりは
問題
だということができる
問題を通して奇跡が始まる
問題のない奇跡はない
自分の力で解決できない時
神さまが奇跡を起こす
問題は奇跡の材料になり
苦しみは奇跡の始まりになる
神様は、奇跡のための
奇跡は起こさない
必要にしたがって
状況に合った奇跡を起こす
最も困難な時、奇跡を行う
特別な奇跡が必要な時に奇跡を起こす
それを信じ、見た後に
奇跡
を起こす
自分が苦しい状況にいる時に
この言葉を聞いて
心が楽になりました

つい、奇跡って
身近じゃなくて
何か選ばれた人だけが
"その奇跡を体験できる
奇跡の為の奇跡"
そう思いがちだったけど……
そうじゃなくて
"苦しみが始まった時に
もう既に奇跡は用意されてる"
だから
苦しい人、絶望を見た人
その人達には、その時点で
奇跡が用意されてる
むしろ
問題や苦しみ、絶望が無い人に
奇跡は起こりえない
苦しみがあって、初めて奇跡が
用意されるから。
そして、それは
"信じて、その方向を見た人に
奇跡
が起こされる"
これを知ったら
苦しみの中に居ても希望を見れる
苦しみの中に居るからこそ
希望を見れる
何か、そう思います

そして、もう1つのポイントが
"自分の力で解決できないとき"
諦めるんじゃなくて
委ねた時に
奇跡への道は大きく開く
意外にこれが簡単なようで難しい



なので……
で書いたように
ニーバーの言葉に置き換えてみました

"変えられないものを受け入れる"
それは
"私は自分で奇跡を起こすことは
できない"
そんな力は無いということ。
あるならとっくに奇跡起こしてる
笑

それをちゃんと
事実として冷静に受け止める。
だから
"私には奇跡は、起きない"
と諦める訳じゃない
"変えられるものを変える勇気"
それは
"奇跡を信じてその方向を見る"
ことは、できる。
自分には奇跡を起こす力は無いけど
神様には奇跡を起こす力がある
だから私は、奇跡を受け止める!
って
"決める。ことは、できる"
そんな風に自分の見る方向を
変えることは、できる
そして
"その違いを識別する知恵"
私には奇跡を起こす事が出来ない
から
奇跡は起きない
そうじゃない。
奇跡を起こす事は出来ないけど
奇跡を信じる事は、できる
奇跡を信じて見た人に奇跡は起きる
"奇跡は誰にでも……
苦しみがある人に用意されたもの"
だから
苦しみが始まると同時に
ゴールには奇跡が用意される
それを見据えて、ただゴールに
向かうだけ!

……そんな風に
勇気をもって、信じてみる。
そしたら
奇跡
は、案外簡単なモノなのかも
知れない



だって
"私にとっては問題なことも
神様にとっては問題じゃない"
それなら、めっちゃ簡単そう
笑

これは、神様の話だけど
クリスチャンとか、ノンクリスチャンとか
関係ない!
と

私は、思ってて……
そもそも
"奇跡=神様の仕業"

って、私がクリスチャンじゃない時から
なんとなく
そんなイメージだったから



だから、この話は
誰にでも当てはまるのかな〜
って思ったりします

"奇跡は絶望を知った人にしか
絶対来ないもの。"
これってなんか、自分の
弱みを強さに変えられる。
なんか、そんな
凄い素敵なことだと思う!!



だから……
人には、中々経験できない
絶望を知った私だからこそ
普通の人には見れない
"見れる景色がある"
……そんな風に思います

"愛する者たち。神がこれほどまでに
私たちを愛してくださったのなら、
私たちもまた互いに愛し合うべきです。
いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、
神は私たちのうちにおられ、
神の愛が私たちのうちに全うされるのです。"
ヨハネの手紙 第一 4章11~12節
mimipopo