こんにちは。
きのこです。
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私が今の長男の歳だった頃は終戦記念日に登校日が設けられいた。
登校日という制度、あれはいつからなくなったんですかね。
登校日に体育館だったか視聴覚室だったかで、地元の空襲のアニメ映画を観た記憶。
その日その街は大空襲に襲われて焼夷弾で町は燃え上がり、皆が川に飛び込んだ、しかし川に飛び込んだ人たちは熱湯になった川で皆死んでしまった。その空襲で1番死体が多かったのは川の中だった。
という話だった記憶。
今住んでいる岡山市内にも西川という川が街中を流れているが、その川が例の空襲で皆が飛び込んだ川によく似ていて、西川を見るたびに登校日に観た映画の話を思い出す。
私が高校生だった頃に9.11のテロが起きた。
ちょうど私達はこれから修学旅行、というタイミングで、沖縄に行く予定だったクラスは関西地方へ行き先が変更になった。
関西地方の人には申し訳ないが、沖縄行きの気持ちを関西行きに変更するのはなかなかに渋い。
(行ったら行ったでUSJ楽しかった、と言っていたが)
沖縄行きたかったよねという話をしながら、なぜ戦争はなくならないのか、みたいな話になったのだと思う。
当時の(現在もだが)私は中2のまま高2になったようなものなので、友人にこんな話をした。
多分この世界は誰かのゲームで、人々が争わなくなるっていうのがゲームクリアの条件だと思うんだよね、戦争がなくなったらこの世界は消えると思う。クリアおめでとう、って。
だから戦争がなくならない、というわけではなく、戦争がなかなかなくならないようにプログラミングされているある意味クソゲーなのでは。
当時この話をした相手は同級生の男の子で、自分でもこんなわけわからない話を多感な時期に異性からされたらこいつ頭ヤバいやつだろう今後距離感を持って接していこう、と思うものだが、彼はそれはなんか壮大な話だね、と肯定も否定もせずに聴いてくれた。(若干引いてる雰囲気はわかったが)
私の中でそのリアクションは高校生男子にしては非常に紳士な対応だな、という感触があり彼の株が上がったのを覚えている。
新卒当時楽天に就職したという話を聞いて、楽天は見る目があるとも思った。
今日も戦争をしているこの世界を
このクソゲーが!!
全然クリア出来ねえよ!!
といいながらプレイしている誰かがいるのかもしれない。
そんなふうに考えてしまうくらいには、世界平和に対しての自分の無力さを感じている。
私にできるのは、兄弟喧嘩の仲裁くらいである。
兄弟喧嘩の感情の線上に戦争もある、ということはわからせなければいけない。ムカつく相手の行動の背景には何があるのか、自分の怒りはその行動で収まるのか。
今朝読んだ被爆者の方の息子さんが書いた記事に、平和に対しての自分達の活動は微力だが無力ではない、と書かれていた。
私達一人一人が自分の生活圏で平和に暮らしていくことは、世界平和に対して微力だが無力ではないと思いたい。