タイトルは小学生の時に先生が言ってた言葉。


(貝柱さん風の書き出し)



細かい言葉の言い回しは忘れてしまったけど、



一人一人がお椀みたいな形をしているのを想像して。大きさが違う人とはうまくくっつかないけど、同じくらいの大きさの人とはピタっとくっつくのよ。だから、大きくて素敵なお椀の人と出会いたかったら、自分も大きなお椀にならないといけないの。



みたいな話だったと思う。

要は類は友を呼ぶ的な話。


私はその話を聞きながら、お椀ではなく、半分に切った果物、桃とかさくらんぼとかをイメージしていた。


サザエさんのオープニングのような。



このサムネみたいな




ピタっとくっついたら、大きくて美味しそうな果物になるイメージ。




それは大きい方がいいな、自分も大きくなろう。



と思ったはいいが、先生の話が抽象的すぎて、一体お椀というものがなんのことなのかがわからない。心の大きさのようなもの?そんな気はする。その大きさはどう測るのか。




そして時は経ち自分の子どもが【お椀の話】を聞いた頃くらいの歳になった。



つまり、自分自身がお椀の話をしてくれた当時の先生くらいの歳になった。




それなりに学校を出て、恋愛と失恋をし、就職をし、結婚をして、出産して、子育てをして…という経験から思うのは




それら全てがお椀を広げるのに必要な経験だった



ということ。



お椀を大きくするって、なんとなくストレッチというかろくろで粘土を伸ばしていくイメージで、いきなり大きくしようとすると割れちゃうけど、ゆっくりゆっくり負荷をかけて広げていくものだと思う。



子どもだったら学校とか習い事とか普通に生きていて意図せず出会う嫌なことや人はそういう負荷的な役割としてとても重要で、それらとどう対峙するのか、立ち向かうのか、逃げるのか、保留にするのか、色々なバリエーションを学ぶことでゆっくり器は広がっていく。



嫌だ嫌だと言われながらも宿題というものがなくならないのはそのためではないかとも思えてくる。



宿題をやること自体も大事だけどやらない選択も含めてどう向き合うのかを考えて、選ぶ。




家庭を含めた学校や社会で、ちょっと大変、ちょっと辛い、だけでなく、すごく大変、死ぬほど辛い時はかなりぐっっっと器を広げられている時なのかもしれない。




お椀が大きくなると視点が増え、広がる。



お椀が大きくなるって徳を積むこととほぼイコールなのだろう。



ゴミを拾うとか、良いことをすることだけが徳積みではなくて、したことのない経験をして、自分の器に負荷をかけ広げていく作業が徳積みなのだと思う。



それが自己犠牲だと、多分お椀は割れる。

徳積みだと、お椀はどんぶりに、大盃に成る。




年頃になり自分のお椀と同じくらいのサイズの人と出会い将来を誓い、お椀はピタリとくっつき球体になってお互いに成長し合うことが結婚生活だったりするのだろうけど

(多分先生が言いたかったのはこのこと)




お椀の大きさに完成はなくて広がるだけでなく小さくなることもある。




その時、お互いのサイズが変わった時、別れがやってくるのだと思う。





もし、お椀の話を今子どもにして、私が思ったのと同じような質問、お椀を大きくするにはどうしたらいいのか、と聞かれたらなんて答えるかなと考えた。



基本的には何もしなくていい。

普通に生きていれば否応なしに負荷がかかってお椀は広がる。自分のお椀が割れないように、誰かのお椀を割ってしまわないように気をつければいい。



その上で何をしたらいいかと考えたら、嫌なことや人を嫌と決めつけないといいかも、とは思う。



不幸を不幸と決めつけない。



幸せを幸せと決めつけない。



物事を色んな角度から見る癖をつける。

ほら、きっとお椀を作る時も綺麗な丸になるように色んな角度からみて形を整えるから、そんな感じ。




親としては、まずあなたはあなたでいてくれたらそれでいい、という言葉をずっとかけてあげたい。それが負荷がかかっても割れないしなやかで丈夫なお椀の素になると思うから。




(同時にお椀を広げる負荷の一因でもある親という業。)