『節分とお面』 | メロディ・クロックの悪魔の方のブログ

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エレキヴァイオリンと女性ボーカルで様々な物語を唄うユニット『メロディ・クロック』のみみみが語る日常。

さてさてさてさて、サトシです!









3月4日ですね!
今日で僕らメロクロがZepp東京で演奏してから丁度1年が経ちました。



















僕にとってはとてつもなく長い1年になりましたね。うん、長かった。









さて、昨日はひな祭りでした。










ということで、日本のイベントにちなんだ、









てかもう過ぎてしまったんですが節分に関する僕の昔話を、










スーパー本気モードでしたいと思います。










それではご覧下さい!!






























『節分とお面』

 は小学生の頃、他人の生活を眺めるのが大好きだった。
 テレビなどでよくある、「~の密着ドキュメント」。そういう番組が流れてくるたび、走りよっては食い入るように眺めていた。家具の配置やその人の生活リズム、食べているものに至るまでブラウン管から読み取れる情報は何ひとつ漏らさないように瞼の奥へと流し込んだ。
 友達の家に遊びに行ったときは、その子の親に
「もうウチも夕御飯にするから帰りなさい。」
と怒られるまで居座るという迷惑極まりないことも度々していた。
 別に誰の家でも良かったのだ。ただ出来るだけ他人の生活に触れていたい。出来るだけその生活の香りを感じていたい。出来ればそのまま誰か他の家族の一員に紛れ込んで生きていきたいとまで考えていた。
 友達の家まで親が怒鳴り込んできて、泣きながら帰ったこともある。

 小学生。自我が芽を出し始め、他人と自分の境遇を比べることが出来るようになった頃。俺はいわゆる「普通の家庭」にとてつもなく嫉妬していた。
 普通の家庭ではお母さんの手作り夕御飯が出てくる。普通の家庭ではお母さん同士で情報の交換をしている。普通の家庭では授業参観でお母さんが暴れない。そして何より、普通の家庭では命の心配がない。
 俺の母親は重い心の病気だった。



 の刃物などは全て簡単には取り出せない場所に隠されている。他の家庭でもきっとそうなんだ。
きっと他の子供たちもみんな、親がいつ暴れだすかわからない状況でビクビクしながら生きてるんだ。みんなだってわけがわからないまま意識を失うまで首を絞められたこともきっとあるし、みんなだって「心中しようか」なんていう言葉を毎日聞いていたりするんだ。
 親の病気の原因はきっと自分にある。幼いながらになんとなくそのことを理解していた俺はその状況を当たり前なんだと思いこもうとしていた。一人っ子という環境もその心を維持させるのに適していた。
 そんな泥細工の「当たり前」は外の世界が広がるにつれて少しずつ崩れ始める。俺の家はやっぱり明らかに他の家とは違っていた。目をそむけて生きることはもう不可能だった。

 恐怖。いつ殺されるかわからない恐怖。

 もちろん心の病気といっても常におかしいわけじゃない。ただ、かなりの重症ではあった。一日一回は暴れだすような状態。父も相当精神がまいっていて、彼らの口にする「心中」という言葉には本当にリアリティがあった。
 自分の腕力が両親よりも強くなるまで、周りで自分だけがそんな恐怖と毎日対面していたのだ。俺はそんな家庭の環境を誰にも話すことなく、せめて学校だけでは平凡な生活を送ろうと努力していた。しかし、そんな精神状態で周りと自然に馴染めるほど俺は上手く作られてはいない。誰とでも楽しそうに話せるが、本当に心を開ける人間なんて存在しない。心から楽しいと思えた日などあるはずもない。仮面を被ったような、裏表を感じさせないように意識しながらも何かしら秘密を背負いつづけるような生き方。それが俺の癖として身体に染みついていった。



 学3年生の節分。正確には節分の直前の休日。
 その日俺は両親とスーパーへ買い物に来ていた。田舎のスーパーは巨大なので日用品から食品まで生活の全てを一気に揃えてしまうことができる。特にその店は冷凍食品やお惣菜が豊富で、料理が出来ない環境で生活している我々のような家族はとても重宝していた。
 無数に並ぶレジ。そのうちのひとつに並んで一週間分の生活の支払いをする父の後ろ姿を母親と一緒に見ていた。俺はこういうとき、いつ何が彼女の機嫌を損ねてしまうかわからないのでいつも自分なりに警戒している。父親としても、目を離している隙に何か勝手な行動をおこさせないように監視を小学生の俺に頼っていたんだと思う。まったくもって微力でしかないが、藁にもすがる思いとでもいうのだろう。この時ももちろん例外ではなく、まるで細かい証拠を見落とさないアニメの探偵のように周囲に注意を向けていた。
 母親はそんな状況を察していたのだろうか。突然彼女はレジの近くにあった特設の棚から豆まき用の鬼のお面を手に取り、それを顔に近づけて
「これ、買ってあげようか?」
と俺におどけてみせたのだ。病気が発症している時は学校だろうが電車だろうが所かまわず鼓膜をぶち破るほどの太く攻撃的な声で暴れまわる母親。それでなくても普段から声が大きい彼女が、俺にだけ聞こえるよう小さな優しい声でそう言ってくれた。
 俺はあの瞬間を一生忘れない。嬉しくて、楽しくて、少し切なくて、とにかく笑った。たぶん学校での笑い方とはひと味もふた味も違っていたと思う。本心から生きていて楽しいと思えた最初の記憶だった。そしてそれは母親からの素直な愛を心で感じた最初の瞬間でもあった。
 俺は、あえてそのお面を買ってもらうことを拒むことにした。



 25歳になるまでに色々な人と出会ってきた。そんな中には父親を自殺で亡くした人や母親を癌で亡くした人もいる。そのような方々のお話を聞いて、今でも両親ともにピンピンしている俺は不幸を語る資格なんてないと本気で思った。けれど、普通の育ち方をしていないのもまた事実。だから自己紹介としてこんな話をするのもありなんじゃないかと整理をつけた。母親のことについては笑い話として周りにも楽しく話しているくらいだから、むしろこんなに真面目に家庭環境について語ったのは今回が初めてかも知れない。
 節分、ひな祭り、こどもの日、クリスマス、お正月。このようなイベントが近づいた時にお店へ並ぶお面や人形。そんなものを見かけるたびに俺は必ずあの日のことを思い出す。現在、母はロサンゼルスでのびのびと暮らしている。この間6年ぶりに会った時には、ほとんど病気が治っているようだった。ただの面白い変わり者のオバちゃんになっていて、正直拍子抜けしてしまったくらいだ。たまに階段を昇る足音に緊張したり女性に名前を叫ばれたときに震えあがることはあるけれど、たぶん俺の人生は母に対する恐怖から解放された。あとは自分がそれに馴れるだけなんだろう。



 間には必ず光と影があるとして、俺の影の根源はここにある。常に心のどこかに抱えている寂しさや以前に記載した『彼の唄』という独白に書いた孤独の原因も、たどれば全てはここに収束する。そして同時に、俺のアーティストとしての哲学や精神もこの環境が育ててくれた。自分が自分であるためにはこの人生でなければならなかったと胸をはって言うことが出来る。俺をこんなにも前向きにしてくれるのはあの時の思い出。あの節分のお面。あれがもしあそこになかったら、俺は母親に対する恐れや恨みから一生解放されなかったかも知れない。

 最初に話したようなテレビのドキュメンタリーは今でも大好きだ。でも液晶画面を通して見える生活より、俺の瞼の奥のほうがきっと輝いているに違いない。


















まっ、病気が治ったって母は怖いんですけどね~。もともと性格が覇王気質だから。










そんなわけで、










ぐっもーにん\(^o^)/