6月は、、
昨日夫の妹夫婦と従兄弟を招き
自宅で義両親の命日供養
コロナ禍からお坊さんを呼ぶのをやめた
先代のお坊さんは
家族皆でお経をあげるのが一番
坊主なんて居なくて良い
とフランクで良いお坊さんだったので
その言葉に従っている
義両親は2人とも6月に亡くなった
義母は亡くなって30年
義父は5年
義母は隣の家で義父が看ていた
食事全般私が作り
義父と私で毎日オシメ替え
義父が義母の足を持ち
お尻をあげている間に
私が取り替えると言う阿吽の呼吸
慣れたものだった
ある時見舞いに来た弟が
「あんなにカロリーの少ないもの
入れていても、、」と思わず
こぼしていたが
ハイカロリーの点滴を入れたら
義母も幾分元気になるだろうが
癌細胞も元気になる
難しい選択だった
そして20日の朝
隣から義父が連絡して来て
駆け付けると ベッドの上で
事切れた義母が居た
ーおかあさん、良く頑張ったね〜
それから25年間義父のお世話は私
最後3年間は自宅で看た
亡くなるまで4度癌の手術を受け
それでも見事に飄々と甦る
義父の生命力の逞しさに
みな感服した
入れ歯を外して洗うのも
ベッドサイドのポータブルトイレに
立たせお尻を拭くのも私の仕事
夜中も義父の気配で起きては
サポートした
最期の命の炎が燃え尽きるのを
見届けたのも私1人だった
いよいよ義父の衰えが見え始めた頃
夫は会があるからと言っては出掛け
義妹は楽しげなライブを誘って来て
私が義父の様子を伝えようものなら
「行く道中で詳細は聞くわ〜」
結局その前日に義父は逝去
告別式の最後棺にすがって
2人は泣いていた
そのくせ葬儀屋のスタッフに
棺の傍の泣き顔の自分達を
カメラで撮るよう指示する夫
私は呆れて見ていた
私は通夜でも告別式でも
一滴も涙が出なかった
もう充分やり切った感があった
時折 義父の大好きだった
アイスクリームをもっと
食べさせてあげたら良かった
とか
ご飯をもっと食べさせてあげたら
良かった、など
思い出してはチクッと心が痛む
そしてどれだけやっても
きっと多少の後悔 未練は
遺るものと気持ちを切り替える
義父の告別式後
義父の姪が私に感謝を
伝えに来た来た
「あの嫁は絶対に叔父さん達の
お世話なんてしないわね」と
言っていたのを私は知っている
夫は喪主の挨拶で私を労ったが
私は冷めていた
叔母は私に言った
「みえちゃん良かったわね
◯◯さんにあんなに言って貰って」
その言葉が彼の心からの本心なら
25年間お世話をしていた私に
その優しい言葉を
その感謝の言葉の一言でも
私に伝えて欲しかった
「ありがとう」の一言も無かった
そして母から
「25年間あなたは良く頑張りました
えらかったね〜」と言われ
初めて私は泣いた
ケアマネさんにも
かかりつけの歯医者さんにも
自宅で義理の家族をここまで看た人を
未だかつて見たことが無い
と驚かれた
けれど
私は当たり前のことを
普通にやっただけ
それだけのこと
義母は宝塚の大きなお屋敷に住む
お嬢さんだった
昔のアルバムの写真には
進駐軍数名と日本人達の
ホームパーティーの様子
その中に越路吹雪さんも写っている
義母の兄嫁はもと宝ジェンヌ
駅前の文房具屋さんの女将さんは
私を見掛ける度に
「坊ちゃんお元気?」と
坊ちゃん、つまり夫のこと
そこから毎回言われるのが
「お義母さんはいつもうちに
来られる時は
お手伝いさん連れでしたよ」
「私は一人二役
お手伝いさんも兼ねてます♪( ´▽`)」
「奥さん面白いわ〜^^
ホント気さくなかたやね〜」
恐らくこの会話
何十回と繰り返している
今 我が家の狭い庭は賑やか
お義母さんが好きだった
ゼフィランサス
6月に合わせて咲いてくれる
30年以上前からずっとこのまま
そろそろ大きな鉢に
植え替えてあげないとね
合掌
こちらはお馴染みのカラー
夫が去年ブチブチ短く切ったら
今年は大きく成長
GW前から咲いては枯れ
また新たなのが咲いて
を繰り返し
かれこれ1ヶ月以上
楽しませて貰っている
スクッとした立ち姿が
凛としていて潔いが
中にはちょっとしなやかな姿も
これらのカラーは
去年の今頃ブログにも記した
京都祇園の車の暴走事故で
亡くなった友人からのお裾分け
あれからもう12年
合唱
最後は去年患者さんから頂いた
アマリリス
(去年のアマリリス)
特にこれと言った手入れは
していないが
今年は去年より本数が多い
今年は太い軸が3本
現在最後の1本に大輪の花が4つ
そして合、、、
あっ、失礼
ご存命でしたm(_ _)m