あれから29年 | 晴れ、時々・・・

あれから29年

2024年は能登半島地震で始まった


連日テレビのニュースで

被災されている方々の今を知る


この寒さの中

未だライフラインもままならぬ状態


被災されている方々もさることながら

被災地で活動されている方々をも

祈る様な気持ちで見つめる




阪神淡路大震災の時

我が家は食器棚や箪笥、テレビなどが倒れ

家の中は色々なものが散乱

割れた食器は大きな段ボール2箱分


上下真っ二つに倒れた蘭製のリビングボードは

ガラスがアンティークの少し歪んだガラス

結局オランダへ輸送してリペアして元通りになり

帰って来たが 時間もお金も掛かった


それなりに被害はあったが

幸いライフラインは震災当日に全て復活


確かその頃隣で義父が診療所をやっていたが

その日から取り敢えず診療していた気がする


夫は車はやめてバイクで病院に通勤していた


離れた病院に赴任していた弟に頼まれ

弟のフィアンセ一家を車に乗せて

連れ帰ろうと避難所へ向かったが

途中から通行止めばかりで橋も封鎖され

残念ながら辿り着けず



私の周りは比較的被害が少なく

私はスーパーにも行けたし

料理も普通に作って食べる事は出来た


一日中テレビを付け

悲惨な状況が時間の経過と共に

どんどん明らかになり余震も続いていたので

不安と恐怖を感じながら

何とか日常を過ごしていた



震災が起こって3日目くらいだっただろうか

たまたま顔馴染みの薬局に立ち寄ったら

其処のご主人が


先ほどから皆さん遠くから歩いて来られ

ドライシャンプーとかオシメとか

色々買われるのですが 皆さん仰るのが

「温かいお風呂に入りたいです」


それを聞いて

居ても立っても居られなくなった私は

直ぐに帰宅し 紙に

連絡先や簡単な地図を書き一言添えた

『よろしければ我が家のお風呂にどうぞ』


それを持って再び薬局に行き

ご主人にこの紙を何処かに貼るよう

お願いした


ご主人は何度も感謝を伝えてくれたが

私に出来るほんのささやかな当たり前のこと

と言う認識しか無かった



取り敢えずそれを見て来られた方は3組


中年のご両親とそのお嬢様

張り紙の薬局で働く従業員の親子さん

そして近くの高校の先生


皆さん 患者さんなど医療用のお風呂では無く

あくまでも我が家の家庭用のお風呂だったので

随分驚かれた


そして入られたあとは

温かなお茶とささやかな茶菓子を


「この辺りは普通ですね

我々の所とは雲泥の差」


翌年には御恩は忘れませんと言う

賀状も頂いた




しかしこう言うどさくさ紛れに

良からぬ事を考える輩が出没するのは世の常


私の実家も思いの外被害が少なかったので

父は早くから普通に大阪に出勤


スーツにコートを着ていつも通り

阪急電車に乗っていたら

着のみ着のままのリュックを背負った男性に

お金をくれとせがまれたらしい


それを聞いた母が直ぐに電話して来て

「あなたのやっている事は良い事だと

思うけれど こんな事があったから

あなたも気を付けなさい。

良い人ばかりが来るとは限らないから」



迷ったが薬局に行ってご主人に事情を話したら

「私もふと気になったので紙を外させて

貰いました。何かあった後では遅いですから」




それから暫くして私は所属していた公民館の

英会話教室のお仲間と役所の

全壊、半壊、一部損壊の判定のお宅を

地図に色鉛筆で塗っていくボランティアに

参加させて頂いた


その時は 日本各地から

ボランティアの方々が参加されていた



ボランティアと言うのは中々難しく

中途半端に関われば却って足手まとい


やるなら最後まで責任を持って

とリーダーさんに言われ皆心を引き締め

キリの良いところまで何度か通いやり遂げた





あれから明日で29年も経つなんて



明日我々も深い祈りに包まれる







被災者の皆様に

温かなお食事と寝床が確保され

温かなお風呂で心身共疲れが癒やされる

そんな日が早く来ますように