分断の帝国 ― 日本とアジアを裂いた国際金融資本 |  耳たぶドットカムのミミカムdays!

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プロローグ ― 日本とアジアの交わる時代

幕末から明治初期、日本は欧米列強の圧力と、列強に支配される危機の狭間で揺れていました。
しかし、日本とアジアの隣国との結びつきは、当時非常に強固なものだったのです。

中国との交流は文化・学問・経済のあらゆる面で続いてきました。

漢字や儒学、仏教は日本文化の基盤であり、江戸時代からの限定的貿易は近代に入っても発展を続けました。日本は中国の近代化のモデルにもなり得る互恵的関係を築ける可能性を秘めていました。

ロシアとの関係も同様です。

北海道、樺太、満州方面での交易や交流は、外交や交易を模索する中で育まれてきました。明治期には鉄道技術や軍事技術を導入するなど、協力の余地も存在しました。
史実ポイント:
・日本は清やロシアと文化・技術・貿易の交流を長く維持していた。
・明治期、日本の発展は隣国との交流を背景にした可能性を持っていた。
・しかし、この自然な連携は欧米列強の戦略によって分断されることとなる。

その転機となったのが、東インド会社や欧米商会の存在です。

ジャーディン・マセソン商会をはじめ、海外資本の力は日本の近代化を後押しする一方、戦略的に日本の行動を制御する役割も果たしました。

とりわけ、武器商人であり政治的影響力も持ったトーマス・グラバーは、武器供給や貿易を通じて日本と欧米の結びつきを強める役割を担い、日本とアジアの友好関係を計算づくで断ち切りました。

トーマス・グラバー
「日本よ、覚えておくがよい。アジアの隣国との安易な結びつきは、我々欧米の計画にとって障害となる。互いに仲良くするよりも、各々孤立させ、我々の手綱に沿って動くことが、繁栄の鍵なのだ。」

こうして、欧米資本の戦略的介入により、日本は中国やロシアとの自然な結びつきを維持できなくなっていきました。

日清戦争、日露戦争は単なる国益の防衛や拡張ではなく、欧米金融資本の思惑の下で日本が駒として動かされる構図が鮮明になったのです。

歴史の流れ:
1870年代 ― 日本と清国の貿易活発化
1880年代 ― ロシアとの交易・技術交流
1882年 ― ジャーディン・マセソン商会と取引開始
1894-1895年 ― 日清戦争
1904-1905年 ― 日露戦争

この時代の日本は、自らの力で国を守ろうとする意思と、国際金融資本の思惑に動かされる現実との間で揺れ動いていました。

こうして、歴史の歯車は次第に「明治維新直後 ― 自立の意思」へと向かい、日本が欧米列強の圧力に立ち向かう姿、そしてその先に潜む資本の影を描く準備が整っていきます。

第1章:フルベッキと若き日本人たち ― 学びの目覚め

幕末から明治にかけて、日本は激動の時代を迎えました。

欧米列強の圧力、国内の混乱、そして新しい時代への模索――その中心で若者たちは、未知の世界へと歩み出す勇気を抱いていました。

その学びの場を支えたのが、オランダ人教師・フルベッキです。

彼は数学・兵学・科学を教え、欧米の知識や技術を日本に伝えるだけでなく、論理的思考や批判的視点を若者たちに授けました。

注:フルベッキ自身はキリスト教宣教師でもあり、教育者としても欧州の近代科学を日本に紹介した存在です。

当時の日本人青年たちは、鎖国の名残を抱えつつも、未知の世界に挑戦する意欲に満ちていました。

フルベッキの教室では、ヨーロッパの地図を広げ、蒸気機関や鉄道技術の原理を学ぶ姿がありました。

写真に映るのは、学問に励む若き武士や学生たち、そして教師たちでした。 

ここに映るのは、未来の日本を形作る若者たちの姿。彼らはまだ知らなかった――これからの時代、日本が国際金融資本の思惑に翻弄されること、友好国との交流が分断されることを。

しかし、この時代の学びは、日本の潜在的な友好国である中国やロシアとの交流基盤を作る、かすかな希望の光でもありました。

漢字や儒学、技術や交易の知識は、互いに協力し合える未来への礎となるはずでした。

「知識の灯を胸に抱く者たちは、まだ見ぬ世界を切り拓く」― フルベッキの教え

こうして日本の若き世代は、フルベッキの下で欧米の知識を学びながら、潜在的には中国やロシアと手を結ぶ可能性を秘めたまま、新たな時代へと足を踏み出していきました。

そしてこの学びの姿勢は、やがて国際金融資本の影響の中で翻弄される日本の運命と、密接に繋がっていくのです。

この学びと交流の芽生えは、やがて欧米資本との関係、そして日本の軍事・財政面での依存につながり、日清戦争・日露戦争へと展開していきます。
第2章:東インド会社・欧米資本の「軍事支援」という毒饅頭

明治維新で自立の意思を示した日本。

しかし、その成長の背後には、欧米列強や国際金融資本の影が迫っていた。 

特に、軍事・産業面での近代化には、ジャーディン・マセソン商会クーンローブ商会といった東インド会社系の資本と技術が不可欠だった。

「この兵器と資金を手にすれば、我が国は欧米に負けない!」 明治の指導者たちは希望に胸を膨らませたが、知らぬ間に〈借金と依存の鎖〉が忍び寄っていた。

欧米資本による軍事支援

- 鉄道、造船、兵器産業の整備は欧米の技術に頼らざるを得なかった。 - 日清戦争や日露戦争の戦費の大半はロンドンやウォール街からの借入。 「勝てば国力が上がる」と思われた戦争も、実際は金融資本の計算に組み込まれていた。

「戦争に勝っても、国民は重税に苦しむだけか…」 国民の生活と国の未来が、資本の思惑に左右される現実が見え隠れした。

中国・ロシアとの自然な交流の阻害

本来なら、日本は中国やロシアと経済・文化・技術で自然な交流を深める可能性を持っていた。 

しかし、欧米資本の支援と借金依存により、その道は遮断され、対立的構図が強化されていった。

本来の可能性 欧米資本の影響
中国・ロシアと互恵的な経済・文化交流 欧米資本依存により交流は制限、対立構図に誘導
自立的な近代化と地域協力 戦争資金の借入と軍事技術供与で「駒化」
ポイント: 東インド会社や欧米資本の支援は、表面的には近代化の助けとなったが、裏では日本を「欧米の戦略の駒」として縛る罠でもあった。
第3章:戦争を重ねるごとに「欧米の駒化」

日清戦争・日露戦争・満州事変。日本は次々とアジアで軍事行動を展開していった。

しかし、勝利の裏には常に欧米資本の影があった。 

表向きは国益のため、裏では金融資本の計算に組み込まれた「駒」としての戦争だった。

「勝ったはずなのに、国民の重税は増える一方…」 勝利の歓喜と国民の苦悩が、鮮やかに交錯する。

日露戦争:借金漬けの勝利

日露戦争では、勝利を収めたものの、資金の大半はロンドンやニューヨークの金融市場から借入れていた。 

国民は重税に苦しみ、国家の自由な意思は資本の思惑に縛られていた。

第一次世界大戦:代理戦争の舞台

欧州列強の代理としてアジアの権益拡張に駆り出される日本。 

自国の安全保障や独立のためではなく、欧米資本の利益を維持する「駒」として動かされる現実があった。

満州事変〜日中戦争:消耗の罠

世界恐慌後、日本は「対ソ・対中の矛」として利用された。 

満州事変(1931年)や日中戦争(1937年〜)は、日本の自主的戦略というより、欧米資本の計算された消耗戦の一部だった。

表向きの戦争理由 裏の真実
国益・安全保障の確保 欧米資本の利益と戦略に組み込まれた「駒」としての行動
勝利による国力向上 借金依存と重税により国民生活は圧迫される
独立的な外交・軍事戦略 金融資本に誘導された消耗戦の側面が強い
満州事変(1931年):資源確保・防衛 直接防衛の必要はなく、欧米資本の計算された消耗戦の一部
日中戦争(1937年〜):国土防衛・拡張政策 日本を戦略的に消耗させる欧米資本の意図が背景にあった
アジアにおける日本の主導権確保 中国やロシアとの潜在的友好関係を分断するための戦略的誘導
ポイント: 日本の戦争行動は、表向きの「自国防衛・国益」と、裏での「欧米資本の駒」としての動きが絡み合う複雑な構造だった。 これにより、中国やロシアとの自然な交流や協力の道は、意図的に遮断されていった。
第4章:太平洋戦争と敗戦 ― 思惑通りの帰結

日本は次第に欧米列強・国際金融資本の計算された舞台の上で動かされていた。 

ABCD包囲網や石油禁輸などで「戦争せざるを得ない状況」に追い込まれ、ついに真珠湾攻撃へと踏み切る。

「これが国益のための行動だと言えるのか…」 総力戦の渦中で、将兵も国民も、疑問と不安に押しつぶされる。

ABCD包囲網と石油禁輸:追い込まれた選択

A米国・B英国・Dオランダ・C中国による経済封鎖は、日本の資源確保を困難にした。 (Cは当時の「中華民国(蒋介石政権)」で、現在の台湾政府の前身にあたる)

国際金融資本の戦略に沿って、日本は消耗戦に巻き込まれる形となった。

真珠湾攻撃:米国参戦の口実

1941年12月8日(現地時間12月7日)、日本は真珠湾攻撃を行い米国参戦を誘発。 

しかしこの戦略は、金融資本の計算通り、日本を消耗させるための布石でもあった。

消耗戦と国民生活の圧迫

戦争が長期化するにつれ、民間の生活は困窮。 勝利の栄光は消え、国民は疲弊し、都市は爆撃で焦土と化した。

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1945年:敗戦と西洋化の完成

日本は完全に敗北。欧米列強、特に米国による占領が始まり、国際金融資本の思惑通りに「西洋化」が進められた。 

憲法・教育・金融システムのすべてが西側仕様に再設計され、国の意思は大きく制約された。

戦争の表向きの理由 裏の真実
国益・資源確保 国際金融資本の計算通り消耗させられる戦略
勝利による独立強化 敗戦と占領による西洋化、軍事・経済拠点化
自主的外交・軍事判断 欧米列強の思惑に誘導された駒としての行動
ポイント: 太平洋戦争は、日本が自国の意思で選んだ戦争ではなく、国際金融資本の戦略に沿った「駒としての消耗戦」だった。 敗戦後、日本はアジアにおける米国の軍事・経済拠点として再設計される。
第5章:戦後 ― アジアの前線基地としての日本

1945年の敗戦後、日本は欧米列強、特に米国の管理下に置かれた。

国際金融資本の思惑に沿って、西洋化と再設計が急速に進められた。

「これが私たちの未来なのか…」 国民は敗戦の衝撃と、次々と変わる社会制度に戸惑った。

憲法・教育・金融の全面西洋化

占領下では、憲法や教育、金融システムまですべて西側仕様に書き換えられた。 

自主的な国家運営の自由は制限され、日本の意思は欧米の計画の下で制御される。

アジアにおける米国の軍事・経済拠点

冷戦構造下で、日本は米国の軍事基地・経済拠点として機能。 

アジアの前線基地としての日本は、国際金融資本の戦略的利益に組み込まれた。

高度経済成長 ― 「繁栄の裏側」

日本の高度経済成長は、国民の努力だけによるものではなかった。 

米国の世界戦略の一部として、日本は繁栄させられ、アジア市場の安定と米国利益を支える駒として機能した。

表向きの繁栄 裏の構造
高度経済成長と社会発展 米国の世界戦略に組み込まれた経済の拡張
自国の自主的復興 国際金融資本による制度・教育・金融の西洋化支配
平和の確保 アジアにおける米国軍事拠点としての役割
日本は敗戦の後、経済成長という「果実」を手にした。 しかしその果実は、自主独立の実りではなく、冷戦秩序の温室で育てられた人工の繁栄であった。

高度経済成長は人々の生活を豊かにした。テレビが家に入り、車が道路を走り、都市は光に包まれた。 だが、その繁栄の背後には、憲法・金融・教育・軍事のすべてを「西側仕様」に設計された体制が存在した。

「これは日本人自身が選び取った未来なのか、それとも戦後体制の設計図に沿った“用意された道”なのか──」
戦後日本は、自らの意思ではなく、国際金融資本・米国の戦略に沿って再設計され、アジアの前線基地として機能。 表向きの繁栄の裏には、戦争による消耗と、欧米による計画的統制が隠されていた。
エピローグ:失われた道 ― 本来のアジアと日本

明治維新から戦前まで、日本は中国やロシアと文化・経済・技術で深く結びついていた。 

しかし、欧米列強・国際金融資本の思惑により、自然な交流は遮断され、日本は「駒」として戦争へと駆り立てられた。

「本来、私たちは互いに助け合える隣人同士だったはず…」 歴史を振り返ると、失われた友情と協力の可能性に胸が締めつけられる。

日本と中国・ロシア ― 可能性のあった結びつき

  • 文化面:漢字、儒学、仏教、技術・学問の交流
  • 経済面:江戸時代の貿易、明治期の近代的商取引
  • 外交面:北海道・樺太・満州方面での交易や技術協力

欧米の分断戦略

日本が欧米資本・軍事支援に依存するようになると、自然なアジアの連携は阻害された。 

日清戦争、日露戦争、満州事変などは、単なる自衛や国益拡大ではなく、欧米の戦略に組み込まれた動きだった。

本来の日本・アジア 欧米資本による分断後
互恵的な文化・経済・技術の交流 戦争・対立に誘導され、駒として利用される
中国・ロシアとの友好関係の可能性 軍事・経済的依存により遮断
自主的な国家選択の自由 欧米資本・米国の戦略に組み込まれ制御される

失われた可能性と未来への視点

戦後の西洋化、日本のアジア前線基地化は、国際金融資本の計画通りの帰結だった。

日本には米軍基地が120以上存在します

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しかし、歴史を正しく理解すれば、現在の日本、中国、ロシアは、過去のように敵対関係ではなく、互いに協力し得る可能性を持っている。

まとめ: 過去に失われたアジアとの自然な連携。 歴史を知ることは、誤解や偏見を超え、真の友情や協力を取り戻す第一歩である。
「私たちは、戦争に駆り立てられた駒ではなく、本来のつながりを取り戻すことができる。」 歴史は未来への道しるべとなる。