私が元夫に涙を見せたのは、アメリカにやってくる数ヶ月前突然母が亡くなったとき以来だ。その前は、結婚直後、父が亡くなったときかもしれないが、よく覚えていない。元夫は、言葉を失ってその場に立ちすくんだ。私の涙も、そして私が発した言葉の中身も、元夫には、まったく予想外の、彼の筋書きにはないことだったのだ。私は続けた。 娘の顔を見た?いつもびくびくして。またどこかへ連れていかれるんじゃないかって心配なのよ。 娘はいつも犬といっしょに部屋の隅っこに座っていた。犬は娘につながれていた。元夫の機嫌が悪いとき犬がじゃれついたりしたら、しつけがなってない、と怒られるから。犬と並んで座っている娘はまるでおびえた動物のように、いつも黒い大きな瞳に不安をたたえていた。元夫の機嫌が悪いと知ると、立ち上がって自分の部屋へと向かった。つながれた犬は仕方なく娘のあとを尻尾を垂れてついていった。 そんな娘の背中を何度見たことだろう。娘の後ろをトボトボと歩く犬の姿と重なって、とても不憫だった。脳裏に焼きついて離れないその光景が、また私の涙を誘った。元夫はまだ黙ったままだった。私の心の内をすべて吐き出してしまうにはいい機会だった。とりあえず、その場の感情をなにも考えずそのまま口にしてしまった。それをきっかけに、今まで感じていた不満を素直に言ってしまうべきだった。でも、涙が出るまでに高まった一時の感情もすぐに醒めてしまって、いつもの私に戻っていた。ただ、自分でも思いもかけず泣いてしまったことを、どう取り繕おうか、そのことだけが気になった。人前で泣いたあとの後味の悪さだけが、私の感覚に残っていた。私がそれ以上何も話しそうにないと知ると、元夫は、すこしやさしい口調になって、じゃ、どうしたいんだよ、と私に聞いた。私がそれに答えるまでには、すこし時間が必要だった。もう、これ以上涙を見せたくない。ようやく平常に振れるようになった心電図の針を、その時の正直な気持ちを言葉にすることによって、またピンと振り上げてしまうようなことはしたくなかった。そして、頭の中にはいつも離婚の二文字があって、気が緩めば口から出てしまいそうだった。でも、まだそれを口にするのは早急な気がした。だからといって、離婚を念頭におかず、それから先のことを考えるのは困難だった。ついてこないなら離婚だ、と言った元夫に、ついていきたくない、と答えたのだから。 わからない…。 そう言うのがせいいっぱいだった。元夫がそんな答えで納得するわけがない。元夫が何か言い出す前に言葉を続けなければならなかった。 一人でしばらく考えたい。 元夫の追及から逃れるためにはそう答えるほかなかった。