SNSは、人をだめにするね、なんていう話を先日したばかりだというのに

また、同じことを身を持って思い知らされる。




終わりのない終末にもがき喘ぐ日々を送っているのは

私だけ、ということだろうか。





ふたりがふたりである意味を紡いでいた時、

それぞれ選んだお互いの一番気に入りの写真を

某SNSのプロフィール写真に据えたのは、もう、1年も前のことだろうか。




メール上で

「君に俺はふさわしくない」の一点張りの彼に

いつまでも引き下がれない私が

帰省中の彼に「話ができるまで東京で待っているから」と告げてから早1週間。



メールは未だ返信がないものの、

SNSの写真は更新。



ふたりの思い出深い、自身の写真は非公開に。

新たに写真をUPしている彼。


それは、見覚えのある写真で、だけど私に直接は縁のないもの。






「もうお前には何の感情もない、これがその証拠」


って、そういうこと?






間接的に告げられる絶縁宣言とは、こうも人を絶望させるものなのか。



私は、彼からの私に対する感情を聞きたかった。

彼の口から。目を見て。心を尽くして。

それは体裁でも建前でも何でもなく、無防備な心情として。



私のことを愛しているか、そうでないか。

私といて苦しいか、そうでないか。




「私のことを考えて」というフィルター越しでなく

「彼の私への気持ち」に、ただただ向き合いたかった。


だから、待っていた。


「待つ」行為が報われるかどうかすら知れないけれど、

身を削る行為だとわかっていても、それしか私には為す術がなかった。


この果てしない暗闇から抜け出すためには、

生身の彼と向き合わなければならなかった。





偽りの言葉なら要らない。

糖衣のない、耐えられないほど苦い薬で構わない。


それでも真実に向き合うことこそが、光のある方だと信じていた。




でも、あなたの答えは向き合わないことなの?

散らばせた暗喩を、読み取って諦めてくれよ、と、そういうこと?




そんなに簡単な思いなら、ここまで思ったりしない。

そんなに単純な関係なら、こうまで想ったりしない。




私は、悔やんでも悔やみきれない後悔をしている。

わかっていたことなのに、目先の苦しさを解消する策を手探りで辿っていた。

間違ったものを掴んでいることに疑問も覚えず、それに逃げてしまった。



「どうか、時間をかけてその人と別れて下さい。」

「もしもまだ、その人に心を残しているのなら、その気持ちを無理に封じ込めたり、
摘み取ったりしないで欲しい。なぜなら人と人は、結婚とか離婚とか、
そういう制度によって、簡単にくっ付いたり、離れたりできるものではないから。」

「人と人とを結び付けているものは、どんな形やどんな制約にも当てはまらない、
縛られることのない、風のような水のような光のような、気持ちであり、心であり、
互いの心を映す鏡であり、それが愛というものなのではないだろうか。」


―――――『湖の聖人』小手鞠るい



私は、心の奥底にあるこの言葉を、引き出し反芻することがあの時できなかった。

そうして逃げ込んだ場所で、私は息絶え絶えになっている。



だから、後悔している。

制度を無にすれば、気持ちも離れやすくなるのだと思い込みたかった。

拘泥する理由を、失くしてしまいたかった。それだけだった。


結び付けられた想いが解けないままに、ただ、事実だけを捻じ曲げてしまった。




まだ、固く縛りつけられたまま。

その先は見えぬほど遠く。

それが息が詰まるくらい心もとなくて。

居ても立っても居られない。




明日はあるのだろうか。


それでも、心はまだ、待っている。


不毛だと痛い程にわかっていても。