今日久しぶりに卓球をしました。^_^

中学高校と卓球部だったので卓球は大好きです。まあ大して強くなく下手な横好きという感じですが。

今回は高校生と対戦。

何度も対戦していて、勝ったことがない相手で、通り名がチャンピオン(笑)。彼が卒業するまでには、勝ちたいんですけどね~。

で今日の対戦。
相手も久しぶりだったからか、そこそこいい勝負になり、1セット取られた後、次の1セット取り返しました!2セット先取の試合だったんで、「お、これは初勝利なるか?」と思ったんですが。。。

最後のセットはボコボコにやられちゃいました。^_^;

言い訳みたいというか完全に言い訳なんですが(笑)、最後のセットは体が思ったように動かなかった感じがあったんですよねぇ。

若い時から、まあそんなに体力があるわけじゃなかったんで、昔からヒーヒー言ってたんですが、またその時とはなんか疲れ方が違うなあ、と。

なんだか気付かない内に疲れが侵食しているみたいなんですよね。

疲れた体に昔は鞭を打つことができたけど、今は鞭を打ち方が分からなくなったというか、ふんばれないというか。

ほんと、あれ?もう動かないの?って感じです。

まあ、単純に走り込みとかして体力付ければ良くなることで、加齢とは関係ないのかもしれないんですけどね。

ただ今回思ったのは、意識と身体のズレってこわいな、ということですね。

こういうの体感しないと分からないことだから、言って通じるものでもないのでしょうけど、例えば「お父さん、もう年だから疲れたわ」と、言うだけだと、「ふーん」「えーなんで、へこたれちゃうのー?!」と共感されませんが、「いやいや、やりたい気持ちはいっぱいなのよ。でも、心と身体が一致しないわけ。そういうのが、年をとった時の疲れ方なんだよ。ごめんね。」と、言えば少しは同情してくれるかな?なんてちょっと期待しちゃいます。

まあ、たぶん「ふーん」は「ふーん」のままなんでしょうが(笑)。でも自分の身体の変化を言葉にしてみる、というのは思わぬ理解者を増やすきっかけになるのではないでしょうか。

なんだか理解されなくて苦しいなあ、と感じる人は当たり前の感覚を言葉にしてみるというのが一つの処方箋になるのかもしれませんね。
岡田斗司夫さんのやってる「言論スター」のオーディションに行ってきました。

http://goo.gl/jpRQOq

ニコニコ主催で、ネットで活躍する評論家というのを作ろうという企画らしいです。

百人近く面接するらしいから選ばれるかかなり微妙ですけど、ちょっと楽しみです。

今回いた人はかなり濃い人ばっかりで、すごいな、と思いました。
個性重視の教育ってこういうの見るとそこそこ花開いたのかな、なんて感じます。

日本がこれから右肩下りて閉塞感もありますが、それでもなんとかかんとか、生きていく知恵を身に付けなきゃいけませんね。

その知恵さえあれば割りと楽しく生きていけるのではと感じました。
お子さんと、最近きちんと会話していますか?


これはお子さんの年齢やお父さんかお母さんか、男の子か女の子かでも変わってくるでしょうが、一番へだたりが出やすいのが「お父さん」VS「年頃(思春期)の娘さん」じゃないでしょうか。


娘さんがお父さんから距離を置くこと自体は、成長の過程でもあるので、あまり神経質になることもないかもしれません。


これは、「娘さんが秘密をつくる」=「自分だけの世界をつくる=自我を形成していく過程でもあるので、そういった意味では多少距離を感じても仕方がないと思います。



ただ、それ以上に嫌われている・鬱陶しがられていると感じることはありませんか?



「娘なんか知らん!」という状態なら、両方嫌い同士なので、ある意味両想いでOKですが、「娘のこと心配なのに・・・。」と思っているお父さんがいたらツライですね。

そんなときには、二人の対話がしっかり成立しているか、振り返ってみてください。
お父さんが自分自身の聞きたいことを、一方的に聞きだそうとする、もしくはお父さんの話を一方的にしてしまうということはないでしょうか。



「年頃の女の子」は家庭とは別に、同じ年頃の女子たちの仲間(コミュニティ)をつくり、そこをメインにして生きています。言ってみればお父さんとは違う文化を持っているのです。宇宙人と話しているくらいの覚悟で臨む方がいいでしょう。



ただ、文化の違いといってもピンと来ないかもしれないので、もう少し言及すると、コミュニケーションには「事実」と「感情」の2系統があります。



お父さんは仕事中心の生活が「感情」より「事実」重視なので、感情に対するアンテナが鈍りがちです。逆に女の子の会話は「事実」より「感情」重視なので、共感したり特有のノリが共有できないと、コミュニケーションのテンションがガクッと下がってしまいます。



例えば、こういう質問をすることはないですか?
「学校は楽しいか?」「最近どんなことやっているの?」「どんな友だちがいるの?」
ということを矢継ぎ早に、お父さんが知りたいから、事実を確認したいからする質問をぶつけてしまうのです。

で、お父さんがむしろ熱心に「知りたい知りたい・オーラ」を出せば出すほど、娘さんとの「感情」のズレが大きくなってきます。娘さんとしては「自分の秘密を無神経に知ろうとしてきている!」とも感じるので、咄嗟に拒否反応が出てしまうのです。ありていにいうと「気持ち悪い」のです。

「事実」重視の人はコミュケーションが通じなくなると、「相手が何考えてるかわからん。」という程度ですが、「感情」重視の人はコミュ二ケーションが通じなくなると、心を閉ざしちゃいます。つまり「生理的にむり」というところまで達してしまうのです。


じゃあどうすればいいか。




「知りたい!」という気持ちをぐっと抑えて、会話の中で現れる娘さんの感情をキャッチするようにしてみて下さい。そして共鳴するように、その感情をまねて重ねていきましょう。

嬉しそうに話せば、嬉しそうに応対し、悲しそうに話せば、悲しそうに応対し、気だるそうに話せば、気だるそうに応対するのです。

感情に合わせて、ただただ相槌を打つだけでも随分反応は変わるんじゃないでしょうか。

一度拒否されると挽回はなかなか大変でしょうが。。^_^;  
ぜひお試し下さい。健闘をお祈りします!


今の教育の当たり前として「教育を受ける側がサービス代金を払う」というものがあるんですけど、この流れを変えると、ちょっと面白いんじゃないかなあ、なんて思ったりします。


教育ってのはサービス産業ですが、いわゆる飲食業など一般にイメージされるサービス業とは違う気がするんです。


一般のサービス業は、消費者・お客様が第一で「お客様がいかに王様気分を味わえるか」が勝負どころです。もちろん教育もお客様(=生徒)を第一に考え、いかに居心地をよくしてもらうかを考えますし、それによって例えば塾はサービスが向上して喜ばれています。それはそれでいいなあ、と素直に思います。


ただ、教育というのを「教育を受ける側を王様扱いするもの」としたら、どこか根底が狂っているのではないかと思うのです。


教育というのは、自然と師弟関係が基本になっていきます。それは営利の塾であってもそうです。売れている塾というのは、おそらく「サービス」として「師弟関係」を演出できているところなんではないか、と思います。けど、それはあくまで「『師弟関係』に見せたサービス」であって究極的には「師弟関係」になりきれません。そこに教育者としての塾の歪みがあると思います。

この「サービス提供者」か「教育者」か、という問題は営利の塾に顕著だと思いますが、私立の学校もすくなからずこの文脈にはいるのではないかと思います。(公立の学校についてはあまり当てはまらないかもしれません。公立の学校についてはまた後で触れます)



ただ、こういう場合、親に対しては「サービス提供者」子に対しては「先生」としての顔を使い分けているよ、ということもあるかもしれません。


けど、これだって微妙な話しです。


例えば宿題やってこない、生活習慣がずたぼろ、といった場合、親御さんも含めて指導した方がいいんでは?と思うケースなんて山ほどあります。信頼関係が築けていると感じる方には、親御さんにもそれとなくいうということもありますが、そうじゃないときは、注意したって嫌がれるのが分かるから、あえて言わない、なんてことは、結構あるはずです。


経営者としたらむしろ当然の判断といえるでしょう。自分が塾の会社の一員なら、迷わず「サービス提供者」を選ぶべきなんでしょうが、「理想の教育とは?」なんて考えだしたら、やっぱり悩んでしまいます。






「王様扱い」した結果、まさに「裸の王様」が量産されている、といったところでしょうか。






営利の塾からのこうした内省はあんまり聞かないような気もするんですが、どうなんでしょうね。自分が変に考えすぎなんでしょうか。ただ、教育というのは、未来の人間・未来の社会を作っていることになるので、そのあたりあまり考えずにやっていると、大きな歪が出てくるような気がします。




次回は教育をうける側がお金を払うことの「無理」について触れます。