Namaskar
前回の
1. 仏教の聖地を巡る(ヴァラナシ)
2.仏教の聖地を巡る(ヴァラナシ、サルナート)
から引き続き今回はday 3、ナーランダー編です。
仏教の聖地・インド、ネパール
Day 3
BODHGAYA - RAJGIR - NALANDA
[ ブッダガヤ ⇒ ラージギル ⇒ ナーランダー ]
- NALANDA -
ラージギルより北上し約26km
ナーランダーは「蓮のある場所」を意味します。
蓮の花は知恵の象徴でもあり
「ナラン」は蓮を「ダ」は与えることを意味し
知恵を授ける/与える場所と解釈されています。
この地は世界最古の大学の一つ
とされるナーランダー大学(ナーランダー僧院)
の遺跡があることで有名です
グプタ朝時代(A.D.320—A.D.560)
の427年、第四代クマーラグプタ1世
(Kumara Gupta Ⅰ)によって設立され
仏教の教学を学ぶ大学でした。
大学が出来る以前は、ブッダが
この地のパーヴァリカ(Pavarika)
というマンゴーの木の下で
説法をしていたと伝えられています。
バラモン教の教学や哲学
医学、天文学、数学、文法学等
の講座が開かれ、
まさにインド最大の総合大学でした。
高い塀に囲まれた居住型の大学で
9階建ての建物があり
図書館には相当な文献が貯蔵されていました。
ナーランダー僧院は、一時は
1万人もの学僧を集め
1,500名もの教師陣が。
またその入学試験は難関で
たとえ入学を果たしたとしても
中途で挫折をする学僧も多くいたようです。
また、645年には『西遊記』の基になった
『大唐西域記』*1 でも有名な玄奘三蔵
(げんじょうさんぞう:三蔵法師)も
中国より陸路でインドに入り
このナーランダー僧院で学んでいます。
彼は僧院内でも特に優秀で
外出には象の輿に乗ることを許され
その他雑徭(ぞうよう)*2 を免除されるなど
特別対応を受けました。
後に彼は657部もの経典を長安へ持ち帰り
翻訳に力を尽くしています。
しかし、グプタ朝(A.D.320—560)
ヴァルダナ朝(A.D.606—7世紀後半)と
栄えたナーランダー僧院は
1193年、アフガニスタンより
侵攻したアイバク(Aybak)率いる
ゴール朝の軍(トルコイスラム系)により
破壊されてしまいます。
アイバクはデリーを占領
デリー・スルタン緒王朝*3 の
第一皇帝(スルタン:sultan)となり
インドにおける仏教の繁栄は衰
退の一途を辿ることに。
*1『大唐西域記』とは
玄奘三蔵がインドに渡り中国に
戻るまでの旅を著したものである。
その旅は過酷なもので、長安を出発し
タクラマカン砂漠や天山山脈を越え
時には盗賊にも出くわした。
インドに到着をしたのは3年後だという。
はじめ、唐王朝より出国の許可を
得られなかった玄奘三蔵は
密かに国を出る。そして高昌(トルファン)
に至った際、深く仏教を信仰していた王
麹文泰(きくぶんたい)の援助を得た。
これが、玄奘三蔵の旅が
成功した要因だと言われている。
*2 雑徭とは、中国の唐代(618-907)
地方官吏の使役による
民衆の奉仕労働のこと
*3 デリー・スルタン朝(Delhi Sultanate)とは
1206年—1526年の間デリーを
中心に北インドを支配した
5つのイスラム王朝
1206—1290 奴隷王朝
1290—1320 ハルジー朝
1320—1413 トゥグルク朝
1414—1451 サイイド朝
1451—1526 ロディー朝
1526年、ロディー朝の最後の王
となるイブラヒム・ロディー(Ibrahim Lodi)
とバーブル(Babur)が争い
デリーを占領したバーブルは
ムガル帝国(Mughal Empire:1526—1858)
を建国する。この戦いは
第一次パーニーパットの戦い(Battle of Panipat)
と言われる。パーニーパットとは戦いの
行われた場所の名前であり
デリーの東以外の四方を覆う
現ハリヤナ(Haryana)のことである。
インド最大の総合大学ナーランダー
2016年に世界遺産に登録されている
当時、どのように講義がなされ
どのように生活していたのか
大学キャンパスや寮..
想像するとワクワクが止まらない...
合掌