芝居小屋に行く。
芝居ではなく、小屋を見にいったのである。
最古の小屋だというが、いまだに現役であるせいか、そこかしこに気配がする。
ざわめきだとか、笑い声だとか、ほうっという溜息だとか、
そういうものが何かの拍子に、ふとこぼれ出てくるのである。
暖簾の影や、花道の節目や、舞台の奈落の透き間から、
ふっと現われては、すっと消える。
消えたあとの静けさが濃い。
呆けたように立ち尽くすあたしに、案内のおじさんが手招きをする。
猪首の、がっしりと肉のついたおじさんである。
舞台裏の階段をおりていくおじさんのあとを追っていくと、
一段おりるごとに空気が変わり、ひやりひやりと寒くなる。
おりた先は、舞台の真下、奈落の底であるという。
奈落の底とは、果てなきもののように思っていたが、
それは勝手な思いこみであったのか。
薄闇の中、足元の簀の子を見つめながら考えていると、
先をゆく猪首のおじさんが、振り向いて言った。
底なし、だよ。
振り向いたおじさんは、首だけでなく顔もからだも猪で、
思わず悲鳴をあげそうになったのだが、
それよりも「底なし」という言葉に気を取られていたもので、
すんでのところで声を抑えることができたのだった。
毛深い猪の、そこだけ薄桃色の平たい鼻を見つめたまま、
神妙にこくこくと頷いて、頷きながらも、もしや、と思う。
もしやここで動揺の素振りなどを見せたなら、気分を害した猪は猪突猛進、
あたしはどすんと転がって、奈落の底にまっさかさま。
そんなことになるのでは。
とは言え、こんなところに置き去りにされるのはまっぴらだ。
胸の中で、くわばらくわばらと唱えつつ、猪の後を追う。
あたふたと階段をあがり、あがったとたん礼を言って頭をさげ、
くるりとまわれ右をして、あたふたと小屋を出た。
50歩ほど行ってから、まぶしすぎる光の中で振り向くと、
戸口で見送るその人は、猪首のおじさんに戻っていた。
あれはいったい何だったのか。
悪い夢でも見たのだろうか。
獏を連れてこなかったことを、少しだけ悔やむ。